第7話 終章:あなたは誰ですか?

 それから数日後、坂口はふとした拍子に、あの夜勤明けの出来事を思い返していた。


 薄暗い休憩室の片隅で、山下が静かにコーヒーをすすっていた姿。何かを見透かすように遠くを見つめていた、あの目。ほとんど口を開かず、それでも黙々と働き続けたあの背中。


 『山下健吾』という名前も、『村上健二』という名前も、きっと彼自身が選んだものではなかったのかもしれない。誰かの名前を借りて、誰かとして働き、そして誰でもないまま死んでいった。


 坂口は、ある種の悔しさと寂しさを胸に、ひとり病院の中庭に立った。金木犀の香りが樹々の間をすり抜けていく。空はどこまでも青く、遠くで患者の笑い声がかすかに聞こえた。


 ——あなたは、誰だったんですか……


 声に出すことなく心で問いかけたその言葉は、風に溶けるように静かに消えていった。


 だがその問いは、今も坂口の心の中で繰り返されている。


 ——あなたは誰ですか?


 ——誰にもなれなかった誰か。だが、確かにここにいた誰か。


 ……そして今も、誰かの心に、生きている。


【完】





※ここまでお読み頂き、ありがとうございました。感謝しかございません! 

この物語が、静かに心の奥に残るものであったなら幸いです。

あなたの日々に、やさしい風が吹きますように。  天音空

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あなたは誰ですか? 天音空 @iroha_no_karte

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