第4話 最強の狼がやって来た
翌日、教室に入ってきた綾錦先生は、こう言った。
「補習も残り2日だが、本日は、小テストを行う。」
教室内に怒号や嘆き声が響いた。
「話は最後まで聞け!」
綾錦先生は、そう言って生徒達を静めると、続けて言った。
「このテストで、50点以上取った者は、明日の補習は免除してやる。」
再び、騒ぎが始まった。今度は、歓喜の声も混じっていた。
「俺の補習を真面目に受けていれば、簡単な事だからな。」
綾錦先生はそう言うと、テスト用紙を配った。
30分後、回収された答案用紙はその場で採点され、返却された。答案用紙を手にした生徒たちは、喜びの声を上げていた。
こうして、生徒達は残り1日ではあったが、予定より早く補習から解放された。
他の生徒たちが帰った教室には、章太郎と綾錦先生が残っていた。
「初めからこうしていれば、よかったんだよ。」
綾錦先生はそう言って、章太郎に答案用紙を手渡した。章太郎は、複雑な表情をして受け取った。100点と書かれた大きな赤い数字が目立っていた。
「なんだ、嬉しくないのか?」
「そういうわけじゃないけど・・・何で、あの時は、集中出来なかったんだろうと思ってさ・・・」
期末テストの最終日、その最後の科目のテスト中。章太郎は妙にイライラとして、テスト問題に集中出来なかった。
「おまえ、あの日は、調子が悪かったよな。」
「うん・・・」
「その次の日は、どうだった?」
「何ともなかったけど・・・」
章太郎は、綾錦先生の問いかけに、少し首をかしげた。
「テストが終わった日の夜は、何かあったか?」
綾錦先生の行った事に、章太郎はハッとした。思い当たったのだ。その夜は、月に一度の「赤い夜」だった。
いつものように、母親から血を分けて貰って、飲むと、イライラも消えたような気がした。翌朝、目覚めると、いつも通りだった。
「確かにそうだけど、今までは何ともなかった・・・」
「今まではな。」
「そんな、まさか・・・」
章太郎は、急に怖くなった。
テスト期間中のピリピリした空気のせいだと、あの時はそう思っていた。でも、そうではないとしたら、自分は何に対してイライラしていたのか。
教室の中で大勢の生徒に囲まれて・・・、生徒に、人・・・人に対してイライラしていたのか。どうして?どうして・・・、どうしてだろう。
章太郎は、腕を噛まれた時の事を思い出し、全身が震えて、冷や汗が流れ落ちた。そして、腕の傷跡が疼いた。
「落ち着け、鍛冶!」
綾錦先生は、章太郎を椅子に座らせた。しばらくの間、章太郎の背中をさすって、様子を見ていた。すると、少しずつ冷静さを取り戻したようだった。
「大丈夫か、鍛冶。」
綾錦先生はそう声をかけると、教室に備え付けの給水器から汲んだ水を渡した。
「ありがとう、先生。」
章太郎は素直にそう言うと、一気に飲み干した。
「俺も詳しい事はわからんが、混血はともかく、人狼のクオーターなんて珍しいんじゃないか。今までは何事もなかったようだが、これから先はわからない。」
「うん、そうかもしれない。」
「父親はたまにしか帰って来ないんだったな。誰か、相談出来そうな相手はいるか?もし、いないなら・・・」
「大丈夫!来週、祖父がこっちに来るって言ってたから。」
章太郎の顔が急に明るくなった。
「そうか、なら、安心だな。」
綾錦先生は笑みを浮かべて、そう言った。
綾錦先生と教室で別れた章太郎は、同じ校舎にある生徒会室へやって来た。
しかし、応答はなく、鍵が掛けられていた。
「今日は、来てないのか・・・」
章太郎はその場を離れた。わざわざ連絡するのも変かなと思い、そのまま、下校した。
これで、当分の間、学校には来なくていいと思うと、解放されてスッキリとした気分になった。それと同時に、少し寂しくも感じた。
春奈に会うため、生徒会室に来ることも出来なくなるなあ、と思ったが。あの夜、連絡先を交換した事を思い出した。
章太郎は鞄から携帯端末を取り出した。すると、大量の通知が表示された。先に帰った補習組から連絡が入り、友人やクラスメイトからメッセージが届いていた。
補習から解放された事への祝いの言葉や、遊びに行く誘いなどが、延々と連なっていた。中には、バカンス先からの、当て付けのようなものまであった。
だが、肝心の、春奈からのものはなかった。
ミセス・ローズ・シティは、最先端の研究や開発を行うための、研究施設や企業が数多くあった。さらに、それらに関連した投資や産業も、数多く集まっていた。そこで働く者やその家族のための、公共サービスや商業施設は充実していた。
しかし、長期休暇に適した施設はあまりなかった。そのため、学園に通う児童や生徒などの多くは、夏休みが始まると同時に、ここを離れるのである。
もしかしたら春奈も、遅ればせながらそうしたのだろうか、と章太郎は思った。
その日から章太郎は、日中は、特に何をするでもなく過ごし、夜は、母親の店でバイトに勤しむ日々を送った。
週が変わり、祖父はいつ来るのかと母親に尋ねたが、あれ以来、音沙汰はないようだった。
章太郎は、久し振りに出かけることにした。
公共交通に乗りながら、どこへ行こうか考えていたが、いつもの癖で、繁華街の通りを歩いていた。やはり、人通りは多かった。バカンス先へ脱出しない者は、ここへ集まってくるようだった。
前方に人だかりが出来ていた。章太郎は近づいて行った。
「じいさん、いい度胸だな!俺達にけんか、売ってるのか!」
「ケガしないうちに消えな!」
「そうだぜ、じいさん!」
「ハハハハハ、ハハハハハ・・・」
数人の男の笑い声が聞こえた。全員、よく似た黒いTシャツを着ていた。
遠巻きに様子をうかがっている人々が、ささやき合っているのが聞こえた。
「おじいさんが女の子達を助けようとしたんだよ。」
「あのおじいさん、大丈夫なの?」
「誰か、通報したの?」
「じいさん、殺されちゃうんじゃない?」
「ちょっと、誰か、助けてあげないの?」
口々にそう言っていた。撮影している者は何人かいたが、それ以上は、誰も何もしなかった。
「やれやれ、口だけは達者だなあ。困った奴らだ。」
輪の中心にいた老人が、からかうように言った。鮮やかなオレンジ色のアロハシャツに、白いスーツを着ていた。長いグレーヘアを束ね、真っ黒なサングラスをかけ、薄ら笑いを浮かべていた。
「何だと、じいさん!」
1人がそう言うと、老人に殴りかかった。老人は、頭を傾けて拳をよけた。男はバランスを崩して、つんのめった。老人の後ろにいた女の子が、驚いて悲鳴を上げた。老人は、男の背中を掴んで引き戻したので、反動で地面に尻もちをついて倒れた。
それを合図に、残りの男たちが一斉に飛びかかって来た。しかし、老人はヒラリと攻撃をかわし、逆に拳をたたき込んだ。
1人、また1人と、男たちは、地面にうずくまっていった。再び、最初の1人が殴りかかって来たのを、片付けた直後、周りから歓声が上がった。
その声が収まると、老人は孫と視線が合った。
「じいちゃん、何やってんだよ・・・」
章太郎は呆れたように言った。
「章太郎、久し振りだなあ。」
老人は、大きな声で笑い出した。
「相変わらずだなあ、章一郎。」
「壱番館」の店主は、昔ながらの友人を前に笑った。
「お前は少し老けたなあ、芳宏。」
章一郎はカップを手にしてそう言った。
「章一郎さんは昔から強かったの?」
店主の孫娘、咲希がそう聞いた。章太郎や、さっきまで店にいた客から、章一郎の大立ち回りの話を聞いてから、興味津々だった。
「昔は、咲希ちゃんのおじいちゃんの方が強かったよ。」
「本当?」
「何言ってるんだ。章一郎はいつも、手加減していたじゃないか。」
「そうだったか?」
「そうだ。」
老人二人の思い出話は、長くなりそうだった。
章一郎は元々、この都市の住人だった。今、章太郎の母が経営しているバーも、彼が始めた店だった。10年ほど前、山間の小さな村に引っ越したのであった。
章太郎達がその村を訪れた事は何度もあったが、章一郎がここへ戻って来たのは、それ以来、初めての事だった。
そのため、老人二人にとっては、久し振りの再会だった。咲希にとっても、子どもの時以来の再会となった。
「それにしても、咲希ちゃんが俺のことを覚えていてくれたとは、うれしいね。」
章一郎は改めた言った。
「わたしもうっすらと覚えているだけだけど。おじいちゃんと楽しそうに話していた記憶はあるのよね。」
咲希は、お得意のサンドイッチをカウンターに置いた。
「どうぞ、章太郎君も食べてね。」
そう言って、サンドイッチの皿をもう一枚置いた。
「これは、おいしそうだなあ。」
「ありがとう。」
二人はそう言うと、手でつまんで食べ始めた。
昼時は、ランチの客で一杯になったので、章太郎も章一郎も店を手伝った。その後、夕方まで滞在し、店を後にした。
辺りに夜の帳が下りてきた。
章太郎は、祖父、章一郎と一緒に、母の店「月の唄」へやって来た。
「お義父さん、いらっしゃい。ご無沙汰しております。」
章太郎の母は、そう言って義父を出迎えた。章太郎から、前もって連絡を受けていたが、実際に会って、言葉を交わすと安心した。
「由貴さん、すっかり、バーの女主人が板についたようだな。あなたに任せてよかったよ。」」
章一郎はそう言うと、おだやかな笑顔を浮かべた。カウンターの一つに座った章一郎は、感慨深げに店内を見回した。
章太郎は、カウンター端のカーテンの奥に入ると、すぐに着替えて出てきた。
すると、章一郎は、由貴に人差し指で合図を送った。
「かしこまりました。」
由貴はそう言うと、カウンターに酒のボトルをいくつか並べ始めた。それらを正確に計量して、シェーカーに注いだ。両手でしっかりと持つと、顔の横で振り始めた。
高坏のカクテルグラスに、淡い青色の液体が注ぎ込まれた。グラスを拭うと、章一郎の前に置いた。
章一郎はグラスを手に取ると、少し眺めて、口へ運んだ。目を閉じて、じっくりと味わうと、目を開けた。
「うん、由貴さんの味になっているよ。」
由貴が笑顔を浮かべると、章太郎も笑顔を浮かべた。章一郎もそれに続いた。
章一郎はグラスを一度置くと、
「実は、今夜、人と会う約束をしていてね。悪いが、そこの席を一つ、予約してもいいかな?」
由貴は章太郎に視線を送った。章太郎は、奥のテーブル席に予約の札を置いた。
それから、客が何人か入った頃、入り口の扉が開いて、その男が入って来た。
「いらっしゃいませ。」
章太郎はいつものように、そう声をかけた。
「鏡島さん・・・」
「章太郎君・・・」
祖父の待ち人は、鏡島孝行だった。
鏡島孝行はあの夜とは違って、オーダーメイドのスーツに身を包んでいた。章太郎は、一瞬、見間違いかと思った。
章一郎は席から立ち上がると、鏡島に右手を差し出した。鏡島もそれに答え、二人は固い握手を交わした。
「久し振りだね、孝行君。」
「こちらこそ、ご無沙汰しておりました。章一郎さん。」
二人は挨拶を交わすと、テーブル席へ着いた。
「由貴さん、あのボトルを出してくれるか。」
章一郎がそう声をかけると、由貴は頷いて。
章太郎は古そうなウィスキーのボトルと、グラスを二つ、氷を載せたお盆を手に、二人が座るテーブル席へ向かった。
「すでに知り合いだったとはね・・・」
章一郎は、二人の顔を見てそう言った。
「娘が同級生でして。章太郎君、この間の夜は楽しかったよ。」
鏡島が章太郎に笑いかけた。
「はい、ありがとうございます。」
章太郎は全てをテーブルに並べ終えると、
「どうぞ、ごゆっくり。」と、言ってその場を離れた。
「義父の残したボトルですか?」
章一郎はボトルを手にすると、グラスに注いだ。
「ああ、彼のボトルだ。」
二人はグラスをぶつけ合うと、口元へと運んだ。その口元がほころんだ。
章太郎はカウンターの中から、時々、二人の方へ視線を向けた。初めのうちは、酌み交わしながら、談笑しているようだった。時折、二人の笑い声が聞こえた。
しかし、そのうちに、二人の顔が暗く、険しくなっていった。何か深刻な話をしているようだった。
「では、やはり、そのためにおいでになられたんですね。」
鏡島が章一郎に、確かめるように言った。
「ああ、そうだ。今度こそ、逃がすわけにはいかないからな。」
章一郎は、決意したようにそう言った。
「わかりました。微力ながら、お手伝いさせていただきます。」
「ああ、よろしく頼むよ。」
二人は手にしていたグラスを、目の高さまで掲げ合った。
「それで、その後、進展はあったのか?」
章一郎は再び、険しい表情をした。
「奴の居場所は、すでに特定出来たと思っています。ですが、現在、内通者の特定をしている最中です。もうしばらく、お時間をいただきたいと・・・」
「わかった。長い間、この時を待っていたんだ。あと少しぐらいは待つさ。せっかくのチャンスだ、慎重に進めようじゃないか。」
「はい。・・・もし、義父が生きていたらと思うと・・・」
「そうだな。もう、3年になるのか・・・彼が亡くなってから。」
鏡島は小さく頷いた。
「ちょうど、奴の動向がわかった直後でしたから、義父も無念だったと思います。」
「彼のためにも、今度こそ、失敗するわけにはいかん。」
「はい、今度こそ、必ず。」
二人はお互いを見つめ、固く決意したようだった。
その様子を遠くから見ていた章太郎は、二人の間にただならぬものを感じた。
「残りは祝杯用に取っておこうか?」
章一郎の言葉に、鏡島は笑みを浮かべて頷いた。帰り際、鏡島は章太郎に声をかけた。
「章太郎君、また、近いうちに食事をしよう。今度は、きみのお祖父様も一緒に。」
鏡島は、章一郎と由貴に礼を言うと、店を後にした。
翌朝、昨夜の深刻な様子とはうってかわり、章一郎は陽気な感じに戻っていた。
まだベッドの中にいた章太郎を、強引にたたき起こすと、引きずるようにして連れ出した。
母の由貴は、そんな二人を笑顔で見送った。
「バイトは休んでもいいから、ちゃんとおじいちゃんを案内するのよ。」
二人が最初に向かったのは、ミセス・ローズ・パークだった。カフェ・レストランに入ると、朝食を堪能した。
章一郎にとっては、およそ10年振りの景色だった。
広い芝生の広場でくつろぐ大勢の市民も、ジョギング・コースを回るランナーも、10年前と変わらずそこにあった。
窓際の席から、それらの景色を眺めながら、章一郎は、思い出にふけっているように見えた。章太郎は、向かい側に座って、そんな祖父の横顔を見ていた。
すると、章一郎は急に立ち上がった。
「章太郎、そろそろ行くぞ。」
思い出にふけって、のんびりしているとばかり思っていた章太郎は、驚いて後を追いかけた。
「待って、待ってよ。じいちゃん。」
カフェ・レストランを出て、先を行く祖父の背中に、章太郎は呼びかけた。小走りで追いついた章太郎を残し、急に、道を曲がった章一郎が向かったのは、章太郎もお気に入りのバラ園だった。
章一郎は一株、一株のバラを、愛でるように眺めながら、園内を歩いた。章太郎はその後を、ついて行った。
「ここは、俺と万里子の思い出の場所なんだ。」
章一郎は、不意に言った。万里子は章一郎の亡き妻、章太郎の祖母である。
「俺はこのバラ園で、彼女に助けられたんだ。もう、50年以上になるか・・・」
章一郎は、孫に聞かせるつもりという感じではなく、淡々と話し始めた。
若い頃の章一郎は、探偵と称して、様々な仕事を請け負っていた。中には、おおっぴらに話せないような依頼もあった。
金額次第でどのような仕事も受ける凄腕の探偵、という噂が広まっていた。
そんな彼が、後にも先にも、ただ一度の失敗があった。それが、万里子との出会いのきっかけだった。
その日、彼はある依頼を受けていた。その仕事の最中、思わぬ反撃にあった。どうやら、以前に受けた依頼で被害を被った組織が、罠を張っていたのである。
予期せぬ負傷で動けなくなっていた所を、助けたのが万里子だった。彼女は、植物の研究者で、朝早く、バラ園に来ていたのだった。
驚いて怯えるどころか、彼女はいきなり、章一郎を怒鳴りつけた。彼女にとって、人よりバラの方が大事だったのである。
「えっ?あの優しいばあちゃんが?怒鳴ったの?本当に?」
章太郎は驚いて、思わずそう言った。幼い頃の祖母の面影は、いつも微笑んでいる姿だったからだ。怒鳴るどころか、声を荒げる事さえなかったのである。
章一郎は、驚く孫の顔を見て、目を細めた。
話はここで終わったが、これには後日譚があった。
章一郎は傷を負いながらも、依頼以上のものを手に入れていた。その後、それは然るべき機関に渡り、ある組織の壊滅につながったのである。
章一郎は、東屋に入った。
章太郎もそれに続いたが、足を踏み入れる瞬間、少し緊張した。さりげなく中を見渡すと、あの夜、落とした紙袋は、すでに片付けられていた。
章太郎は、祖父の隣りに、少し離れて座った。
「章太郎、ここで何があった?」
いきなりそう言われて、章太郎はドキッとした。
「どうして?」
章太郎は何と言って、答えていいかわからなかった。
どうしてわかったのか、どうしてそう思うのか、どうしてそんなことを聞くのか、言いたいことがあり過ぎて、それしか言えなかった。
「東屋へ入る時、緊張しただろう?おまえの鼓動が早くなった。そして、少しホッとした。今も、少し緊張しているな。」
章一郎の言う事は、章太郎には謎だった。
「俺の耳は、狼と同じように聞こえる。意識すればな。だから、おまえの鼓動の変化もわかるんだ。」
章太郎は口を開けたまま、聞いていた。
「それで、ここで何があった?話してみろ。」
その優しい口調と自分を見つめる優しい瞳に、章太郎はあの夜、ここで起きた事を話した。それだけではなく、テスト中に起こった体の異変、春奈や綾錦先生との事、地下の住人や自分が噛まれて、その後に起きた事など、全てを話した。
話し終わった章太郎は、体が軽くなった気がした。
「じいちゃん、ありがとう。聞いてくれて・・・」
「いいんだ、俺はそのために来たんだから。離れていても、おまえの体の変化は、感じ取る事が出来るんだ。」
章太郎は祖父の顔を見た。章一郎は孫の肩を抱き寄せた。章太郎はこの上ない安心感に包まれた。
二人は東屋の中で、体を寄せ合い、笑い合った。
「今度は、俺の話を聞いてもらおうか。今のおまえなら話してもいいだろう。」
それは、まだ章太郎が生まれるずっと前の話から始まった。
ミセス・ローズ記念学園のある敷地に、かつて、人ならざる者の研究をしていた、悪名高い研究所があった。
しかし、その研究所も、初めからそんな場所だったわけではなかった。
最初は、人道的な配慮がなされた研究が行われていた。様々な能力や血を受け継ぐ者が、協力者として、研究に貢献していた。研究者と協力者の関係は良好だった。
ところが、ある日を境に一変した。
一人の研究者が、新しい所長として就任してからだった。
その男の名は、チャールズ・坂口。多くのスポンサー企業を有し、その圧倒的な資金力で、研究所を買い取ったと言われていた。
また、彼は、自身で所有していた能力者、実験体と呼んでいた数体を、持ち込んでいた。その扱いが目に余るほど、ひどかったのである。
心ある研究者は去っていき、協力者も減り続けた。残ったのは、チャールズのやり方に賛同する者と、研究のためなら、多少の事には目をつぶる者だった。
そうなると、誰も止める者はいなくなる。研究所は、暴力と恐怖が支配する場所へと変貌していった。
そんな時に、探偵をしていた章一郎が、研究所のことを調べ始めた。所内で行われていた非人道的な実験の数々、実験体に対する扱いなどが、公的機関に知られる事となった。
スポンサー企業は資金を回収し、研究所は運営出来なくなった。研究者は夜逃げ同然にいなくなり、実験体は放置された。
そこへ、章一郎が現れ、行政の手が入る前に、彼らを助け出したのだった。
その後は、以前からの協力者だった鏡島氏、春奈の祖父に当たる人物の手を借り、彼らをかくまうことになった。
「その後の事は、もう知っているな。」
「うん、聞いたよ。」
章太郎は改めて、地下の住人が置かれていた実態を知ることになった。春奈から聞いた話だけでは、わからなかった事があるのだと思った。
「オレさ、地下で章太って奴と仲良くなったんだ。あいつらのために、オレにも出来る事ってあるかな?」
章太郎は、何かせずにはいられない気持ちになった。
「その章太という子と友達になるだけでもいいんじゃないか。」
「そうか、そうだよね。」
章太郎の顔に笑みが広がった。今度、地下に行ったら、章太にそう言ってみようと思った。
「じいちゃん、他に行きたい所はないの?オレ、つき合うからさ、行こうよ!」
章太郎は立ち上がると、全てが解決したような晴れやかな顔でそう言って、祖父の腕を引っ張った。
章一郎は、苦笑を浮かべて立ち上がった。章太郎は祖父の手を引いて、バラ園の中を走り出した。
それから二人は、ミセス・ローズ・シティに古くからある場所や、新しく出来た場所をあちこち回り歩いた。
章太郎は、久し振りに何もかも忘れて、楽しんだ。章一郎も、そんな孫の様子を見て嬉しそうにし、自らも目一杯楽しんでいた。
二人が、笑いながら家に帰り着いたのは、日付が変わってからだった。
玄関の扉を開ける前に、章太郎は祖父に声をかけられた。
「章太郎。」
「何?じいちゃん。」
章太郎がそう言って振り返ると、祖父は真剣な顔をしていた。一瞬、身構えた。
「実際の所、クオーターというのは遺伝の仕方がよくわかっていない。前例が少ない事もあってな。」
章太郎は、黙って頷いた。
「だから、次の赤い夜は、何が起きてもいいように、必ず俺のそばにいるんだ。わかったか?」
「わかったよ、じいちゃん。そうする。」
章太郎は大きく頷いた。章一郎も頷くと、二人は家に入った。
地下のある一室には、ライアン・リーと拓実がいた。
ライアンが、間借りしている部屋だった。中央にテーブルとソファーが配置され、壁際には作業用の机とキャビネットがあった。奥の続き部屋は寝室になっていて、ベッドが置かれ、ユニットバスも設けられていた。
間借りと言うわりには、快適すぎる部屋だった。
「じゃあ、人質の女の居所はつかめたんだな?」
ライアンがそう言うと、拓実は自慢げににんまりと笑みを浮かべた。
「バッチリですよ、ライアンさん!」
「後は、奴がどう動くかだな。まだ、何も動きはないんだな?」
「はい。まだ、何も・・・」
先週、ミセス・ローズ・パークのバラ園で、あと少しという所で、内通者を取り逃がしてしまった。
しかし、その時に聞いた会話から、内通者が女を人質に取られているとわかった。男たちの行動を根気よく探り、人質の女が監禁されている場所を見つけたのだった。
そして、その女から、内通者の情報にたどり着いたのだった。
「明日にでも、その女を助け出せるか?」
「何人か連れてけば、出来ますけど・・・奴の見張りはどうするんです?」
「俺が引き受けるよ。」
「いいんですか?」
「出来るだけ早い方がいいだろう、奴が何かする前に。」
「わかりました。」
あの夜、内通者は何かを受け取ったようだった。話していた内容から、例のドラッグと思われた。それも以前より量が多いようだった。
内通者が地下の住人に、どのようにして、それを摂取させるのか。以前は、一人ずつ、飲食物に混入させたようだったが、今回はまだ、動きはなかった。
明日、人質の女を助けるまでは、何もするなよと二人は思った。
一方、同じ地下の内通者の部屋では、男が一人、悶々とした夜を過ごしていた。
章太郎が噛まれて以来、警備が厳重になり、前のように動けなくなっていたからだった。3人目の患者、章太の血液の採取も出来ず、受け取ったドラッグも部屋の中に隠したままだった。
その上、毎日のように、男たちから催促の連絡が届いていた。
彼も、決意して部屋を出るのだが、何もせず、部屋に戻ってくるのだった。そんなくり返しの毎日に、すっかり疲弊していた。
その時、彼は部屋の天井から、水が漏れている事に気が付いた。大変と思い、部屋を出て誰かに知らせに行こうとした。
その瞬間、彼は振り返って、天井のシミを見つめた。
彼は、部屋に置かれていた家具を集めて、即席の足場を作った。そして、部屋中の道具を並べると、天井を壊し始めた。
周りに聞こえないように、少しずつ、慎重に壊し続けた。そして、夜が明ける頃、天井裏に通っていた水道管が見えてきた。
小さな穴が空いて、わずかに水が漏れ伝っていた。
部屋の中に隠してあったケースから、ドラッグを取り出すと、その穴の中へ少しずつ流し込んだ。
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