第5話 始まりの夜

 章太郎の元へ、春奈から連絡が来たのは、その日の夜だった。

 その日は、祖父の章一郎が朝から出かけて、留守だった。母親も買い物があるからと、いつもより早くに家を出た。

 章太郎も母親の店に、バイトに行くつもりでいた。しかし、赤い夜が明日に迫っていたので、出掛けに祖父から、家にいるように言われていた。

 春奈からの連絡は、切羽詰まった感じだったので、放って置けなかった。

 そのため、章太郎は祖父に、その旨、連絡を入れた。けれど、返事はなかった。

 仕方なかったので、章太郎は、もう一度、祖父に地下に行くと連絡を入れると、家を出て、春奈の待つ学校へ向かった。

 ミセス・ローズ・シティは、公共交通が24時間営業していた。幾分、本数は減るのだが、便利には違いなかった。

 章太郎は、窓から流れていく街の景色を眺めていた。光り輝くイルミネーションに、学園の屋上から見た光景を思い出していた。

 あの夜が、全ての始まりだった。まさかこんな事になるとは、夏休み前には想像もしていなかった。しかし、章太郎に後悔はなかった。

 今は、知り得てよかったと思っていた。それは、我が家の歴史でもあり、自分にもつながる事だと思ったからだった。

 章太郎は、走って学校に向かった。校門の前で、春奈が待っていた。

「鍛冶君・・・」

「何があったの?」

 春奈の顔は青ざめていた。ただならぬ様子に、章太郎は言った。

「とにかく、行こう。話はそれからで・・、さあ、早く。」

 章太郎に促され、春奈は歩き出した。章太郎の手は、春奈を支えるように背中に回っていた。


 地下駐車場には、地下の住人が大勢いた。皆、不安そうに、体を寄せ合っていた。

「こっちだ!鍛冶!」

 何事かと戸惑う章太郎に、綾錦が手を上げて呼びかけた。

「一体、何が・・・」

「地下で暴動が起きた。」

 章太郎が何か言う前に、綾錦がいきなりそう言った。

「今日の昼頃から、住人の間に様子のおかしい者が現れた。初めは、めまいや動悸、頭痛などの症状だった。だが、次第に奇声を発したり、暴力を振るったりするようになった。とにかく、あっという間に、ものすごい数の住人に広がった。」

「それで、どうなったの?」

「下が今、どうなってるのかはわからん。とにかく、無事な連中をここに連れてくることしか出来なかった。」

 綾錦は、早口にまくし立てるように話した。

 一体、何があったのか。章太郎は、周りを見回した。誰もが、逃げて来るだけで、精一杯という感じだった。不安や恐怖の表情が、その顔に浮かんでいた。

 その時、地下へつながる扉から音がした。扉を叩く音が連続した。

「おーい、誰かいませんか?ここを開けてください。」

 一同に戦慄が走った。悲鳴を上げる者もいた。

「誰だ!」綾錦が大声を出した。

「わたしです。ハルトです。」

「ハルトか?おまえ、大丈夫なのか?」

「はい、無事です。」

「他には誰かいるのか?」

「わたしと先生だけです。他には誰もいません。」

「本当か?」

「はい、間違いありません。」

 綾錦は、扉を少しだけ開けた。隙間からのぞくと、ハルトと先生の顔が見えた。いつもと変わりない様子だった。

 綾錦は扉を開け、二人を迎え入れた。

「助かりました。」

 ハルトがそう言うと、先生はその場にへたり込んだ。

「二人はどうやってここまで来たんです?」

「医務室から排気口を這ってきたんです。」

 二人は、医務室で患者の対応に追われていた。患者は次から次へと運び込まれて来て、症状は時間を追う事に悪化していった。

 最後には、暴力を振るうようになり、どうにもならなくなった。その時、逃げ込んだ薬品倉庫の排気口から、脱出したのだった。

「よかった、皆さん、ここに避難していたんですね。」

 ハルトは周りに視線を向けると、安堵の表情を浮かべた。それは、そこにいた人々も同じだった。ハルトの姿を見て、周りに人々が集まって来た。

 中には、笑顔になる者もいて、少し和んだ雰囲気になった。

「先生、大丈夫ですか?」

 ハルトは最後に、一緒に逃げて来た先生に声をかけた。先生はまだ、床に座り込んだままだった。

「すまんな、ハルト。さすがに疲れたよ。」

 先生はそう言うと、床に手を着いた。その時、白衣のポケットに手が触れ、携帯用のボトルが入っていた事に気付いた。いつも、持ち歩いている物だった。

「おお、これが入れっ放しになってた。」

 そう言って、ボトルの蓋を外し、口を付けようとした。

「待って!ダメだ、それを飲んじゃ!」

 いきなり、章太郎が叫んだ。先生は驚いてボトルを落としそうになった。

「どうしたんですか、章太郎さん。」

「どうした、鍛冶?」

「そのボトルから、嫌なにおいがするんだ。」

 章太郎がそう言うと、皆の視線がボトルに集まった。章太郎は鼻を手で押さえ、続けて言った。

「そのにおい、あの時のにおいなんだ。あの、鉄格子の部屋で・・・噛まれた時の。」

 なぜか、章太郎にはそのわずかなにおいが、ひどく鼻についたのだった。

 もう一度、ボトルに視線が集まった。

「先生、それ、何が入ってるんだ!」

 綾錦が少しばかり乱暴に聞くと、先生は慌てた様子で答えた。

「なっ、何って、い、医務室の水道の蛇口から、水を入れただけだっ。」

「水?水ですか?」

「何で、そんな物から・・・」

 綾錦とハルトが考え込む中、先生が突然、大声を出した。

「そういうことか!誰かが、貯水槽にドラッグを入れたんだ。・・・いや、それだと、症状の出方がおかしい・・・」

 先生が自らの仮説に、独り言で疑問を呈していると、

「そうか、水道管か!」

「蛇口の水から広まったんですか。」

「そうだ!とにかく、水道の蛇口からあのドラッグが広まったんだ!」

 先生が、綾錦とハルトの言った事を肯定するように断言した。

「この中に、下から水を持ってきた者はいませんか?持っていても、決して飲まないでください。いいですか?」

 ハルトがそう言って、皆に注意を促した。


 避難してきた者たちに、学園に備蓄されていた非常用の物資の中から、水と食料が配られた。そのおかげで、ひとまずは、落ち着きを取り戻した。

 章太郎と綾錦、ハルトと先生は、皆から少し離れた場所で、これからの事を相談していた。春奈もすぐそばにいたが、塞ぎ込んだままだった。

「どうやって、元に戻すかだ。」

「先生、あの二人に投与した残りは、どうなったんですか?」

 ハルトが聞くと、先生は胸の内ポケットから、金属製のケースを取り出した。

「ここに持っている。万が一を考えて、いつも持っていたんだ。」

「それで、全員を助けられるのか?」

「さすがに、無理だろう。」

「じゃあ、オレの血があれば、助けられる?」

 章太郎が、三人の話に割って入るように言った。三人が章太郎を見た。三人共、複雑そうな表情を浮かべていた。

 確かに、そうすれば、助かるかもしれない。しかし、どのくらい必要かはわからなかった。章太郎への負担を考えると、言い出しにくい事だった。

「そんなのダメよ!」

 黙っていた春奈が叫んだ。

「そんな危険な事はやめて!鍛冶君に何かあったら、どうするの!」

「落ち着いてよ、生徒会長。」

「ダメよ、鍛冶君!」

「落ち着いてよ、春奈。」

 章太郎が、初めて名前で呼んでくれたので、春奈は驚いた。そして、何だかうれしい気持ちが湧いてきた。体の中が暖かくなる感じがした。

「大丈夫だよ。あの時だって、そうだったろ。ね?」

「そうだけど・・・」

「助けたいんだ、オレ、みんなを。」

「わたしだって、助けたいわ。だけど・・・」

 すると、章太郎は袖口をまくり、噛まれた腕を見せた。牙が食い込んだ後は、もう影も形もなくなっていた。

「ほら、見てよ。昔から、ケガの治りは早いんだ。だから、大丈夫なんだよ。」

 章太郎の言う事は何の根拠もなかったが、自信に満ちたような笑顔だった。

 それを見た春奈は、呆れたようにため息をついた。

「まったく、しょうがないわね。鍛冶君は。」

 春奈は、いつものように微笑みを浮かべていた。

「鍛冶君の血液が手に入ったとして、どうやってそれを、彼らに与えるかです。」

 春奈が、いきなりそう持ちかけると、そこにいた男四人は顔を見合わせた。

「そうですね、患者は医務室に多くいるはずですから・・・」

「わたしらが使った排気口が使えないか?」

「医務室までまた戻るんですか?」

「数が多いから、もっと効率良くしないとだめなんじゃないか?」

「一度に与える方法はないの?」

 話し合いは長く続いた。途中、避難してきた者の中から、何人かが呼ばれて、話に参加した。その結果、一つの方法が考え出された。

 現在、地下は、外とつながる扉が全て閉められていた。そこで、一時的に排気口を閉じ、通気口を使って、内部に血液を薄めた薬剤を送り込むというものである。

 そうすれば、薬剤が少量でも、短時間でも、効き目があるはずという事だった。しかし、上手くいくかどうかは、やってみないとわからないとも言えた。

「あとは、血液の採取の方法だが・・・」

 先生がそう言うと、綾錦が何か思い着いたようだった。

「ひょっとしたら、大学の付属病院の設備が使えるかもしれない。」

「理事長に頼むのね。」

「ああ、当直医が話のわかる奴だといいが・・・、とにかく、親父に電話してみるから、少し待っててくれ。」

 綾錦はそう言って、その場から少し離れた所で、電話をかけ始めた。


 そこからは、何組かに人員を分けて、事が進められることになった。

 章太郎は、春奈と綾錦、先生と共に、大学の付属病院へ向かった。真夜中の病院は不気味に静まり返っていた。

 目指す場所には明かりが灯り、廊下にまで漏れ出していた。扉を開けると、意外な言葉が聞こえて来た。

「あれっ?綾錦じゃないか。」

「黒鉄?!」

「理事長から電話なんて、何事かと思ったら。おまえだったのか。」

「今夜の当直はおまえだったのか。」

「そうだよ、真継お坊ちゃま。」

 綾錦は、口をへの字に曲げた。白衣を着たその男は、にんまりと笑みを浮かべた。

 黒鉄と呼ばれた医師、黒鉄圭一は、綾錦真継の友人だった。

「先生のご友人ですか。」

「鏡島、こいつは友人じゃない、悪友だ。」

 綾錦がそう言うと、黒鉄医師は鼻で笑った。そして、春奈を見た。

「鏡島と言うと、鏡島グループのご令嬢ですね。高等部の生徒会長の・・・」

「鏡島春奈と申します。黒鉄先生には、お世話をおかけします。」

「いえ、いえ。どうか、気になさいませんように、友人の頼みですから。」

「そんな事はいいから、本題に入れ!」

「わかったよ。こちらが、先生で・・・」

 黒鉄医師は、白衣を着た男の方を向いた。

「申し訳ないが、名前を名乗るわけにはいかないのでね。」

「かまいませんよ、先生。」

 二人は握手を交わすと、話し始めた。しばらくして、黒鉄医師が章太郎を見た。

「なるほど、彼の血液をね。あまり、褒められた方法ではありませんが、何とかなるでしょう・・・」

 そう言って、準備のために奥の部屋へ行った。

「鍛冶君、緊張してない?」

 春奈が心配そうに聞いた。

「大丈夫。心配しないで。」

 章太郎が笑いかけた。春奈の顔にも微笑みが浮かんだ。

 黒鉄医師が戻って来ると、少しだけ緊張が走った。章太郎と先生をつれて、再び奥の部屋へ向かった。

「二人は、ここで待っていてください。」

 じっとしていられない様子の春奈と綾錦に、そう言い残した。

 章太郎が採血用の椅子に腰を下ろすと、黒鉄医師は両腕を見せるように言った。章太郎が両腕を差し出すと、血管の状態を調べた。

「いいかい。これから採血を行うけど、通常より多く採ることになる。これは、とても危険な事だから、本来は出来ない事なんだ。」

 黒鉄医師の言葉に、章太郎は真剣に頷いた。

「だから、何回かに分けて、様子を見ながら採血する。きみも何か異変を感じたら、すぐに言ってほしい。わかったかい?」

「はい、わかりました。」

「じゃあ、まず、血液型を調べるために、少しだけ採るよ。」

 黒鉄医師はそう言うと、章太郎の腕に止血帯を巻き、消毒をした。


 手前の部屋で待つ二人にとっては、とても長い時間だった。

 春奈はじっと座ったまま、両手の指を組み合わせ、祈るようにしていた。綾錦の方は、最初は壁にもたれ掛かっていたが、そのうち、室内を歩き回るようになった。

 奥の部屋から白衣の二人が出て来ると、春奈と綾錦は駆け寄った。

「大丈夫ですよ。無事に終わりました。彼は元気にしています。」

 黒鉄医師が笑顔でそう言うと、春奈は章太郎の元へ向かった。綾錦も、その後を追った。

「助かった、黒鉄!」

 友人の残した一言に、黒鉄医師は苦笑した。

 章太郎はまだ、もたれ掛かって座ったまま輸血をされていた。多量に採血した分を、別の血液を輸血することで補っているのだった。

「二人とも、心配かけたね。」

 章太郎は笑顔でそう言った。顔色も良く、見た目には変わらず、元気そうだった。

「鍛冶君、よかった。」

 春奈は、章太郎のそばまで来ると、安心したように微笑んだ。

「鍛冶、思ったより元気そうだな。」

 綾錦が章太郎の顔を覗き込んだ。すると、綾錦は春奈の耳元にささやいた。

「鏡島、おまえは鍛冶に着いていてやれ。後の事は俺達に任せておけ。」

 春奈が何か言おうとするのを、綾錦は片手を上げて遮ると、部屋を出ていった。残された章太郎と春奈は、何も言わず見つめ合って笑った。


 今日の昼前、拓実はその男を追って、地下を後にした。異変が起こる少し前の事だった。

 その男は内通者だった。地下の住人に対して、あるドラッグを広める組織の手伝いをしていた。そんなことをするのには、彼なりの事情があった。

 彼には、つき合っている女性がいた。彼女を人質に取られた彼は、組織の言う通りにするしかなかった。

 しかし、今度ばかりは自分のした事に恐怖と絶望を感じた。もう、どうしていいかわからなくなり、その場から逃げ出したのである。

 フラフラとあてもなく、夢遊病のように歩き回る男に、拓実は怒りを覚えた。

「ちょっと来い!」

 拓実は、いきなり男の前に飛び出すと、その腕を掴んで歩き出した。

「痛い、痛いよ。何するんだよ。」

 男はしばらくして、騒ぎ出した。しかし、拓実はかまわず先へ進んだ。

 男が拓実に連れて来られたのは、古い倉庫が建ち並ぶ場所だった。そこには、先に到着して、拓実を待っていた者達がいた。

 拓実は、男をその場に放り投げるように離すと、言った。

「いいか!これからおまえの大事な女を助け出してやる!今でもその女が本当に大事なら、おまえも手伝え!わかったか!」

 地面に座り込んだままの男は、拓実を見上げた。周りを取り囲むように立っている者達は、哀れみとも蔑みとも取れる目で見下ろしていた。


 その日の夕刻、鍛冶章一郎は鏡島孝行から連絡を受けた。孫の章太郎が心配だったので早く帰りたかったが、連絡の内容を聞いて予定を変えた。

 章一郎が孝行から指定されたのは、鏡島グループが管理する建物の一つだった。

「お待ちしてました。どうぞ、こちらへ。」

 孝行の配下の一人と思われる者に案内され、章一郎は廊下を進んだ。

 その一室は他の部屋と違い、壁や天井、床、扉に至るまで、完璧に防音がなされていた。そこには、孝行とライアン、拓実が待っていた。

 そして、内通者の男と助け出された元・人質の女もいた。

 章一郎が中へ入ると、案内してきた者によって扉が閉められ、室内には六人が残された。

「いつまで、そうしているつもりだ。いいかげん諦めて、すべて話すんだ。」

 拓実が脅すような口調で言った。

 そう言われた男は、女と肩を寄せ合ってその場に座り込んでいた。二人とも疲れた様子で、肩を震わせていた。特に女の方は、髪はボサボサに乱れ、顔には黒いシミがいくつも付き、着ている物はうす汚れていた。

 今日の午後、二人は、およそ2週間振りに再会を果たした。二人は手を伸ばして駆け寄り、お互いの無事を確かめ合うように抱き合った。涙を流し、大声で泣いた。

 もうこれで安心、何の心配もいらない、これから先はずっと一緒にいられる。そう思ったのも束の間、助けてくれた者達によって、ここへ連れて来られた。

「おまえさぁ、自分が何をしたかちゃんとわかってるのか?」

 男は口を半開きにしたまま、言葉とも鳴き声ともわからない音を発していた。

「おまえより女の方が、よっぽどひどい目に遭ってるんだぜ。可哀想だと思わない?早く家に帰してやりたいだろ?」

 拓実は脅して、なだめて、何とか男の口を開かせようとするが、上手くいかなかった。助けを求めるように振り返って、ライアンの顔を見た。

 ライアンは両腕を胸の上で組み、ため息を吐いた。仕方ないなという顔で拓実を見ると、一歩踏み出そうとした時、誰かがすぐ横を通り過ぎた。ライアンは一瞬、体をビクッと震わせた。

 ライアンの後ろで、孝行と一緒にいた章一郎だった。

 章一郎は脇目も振らず、男と女を見つめていた。拓実は近づいて来る章一郎に驚いたが、ライアンの方を見てから後ろに退いた。

「それじゃあ、せっかくの美人が台無しだな。」

 章一郎は女の前にひざまずき、その顎を持ち上げて微笑みかけるとそう言った。

「何か、顔を洗う物を持ってきてくれないか?」

 章一郎から視線を送られた拓実は、慌てて後ろを振り返った。すると、ライアンが無言で行って来いと顔を振った。

 拓実は急いで部屋を出ると、水の入った洗面器とタオルを持って戻って来た。

 女の前に洗面器が置かれると、女は章一郎に手助けされながら顔を洗った。汚れと共に涙も洗い流され、タオルの下から現れた顔にはわずかに笑みが浮かんでいた。

「ほら、美しくなったよ。その笑顔、いいね。」

 章一郎がそう言うと、女はさらに笑顔になった。

「元気になったら、次は何か食べる物を用意しなさい。ほら、急いで!」

 すぐそばで見ていた拓実は、そう言われて、また急いで部屋を出ていった。しばらくして、拓実は外にいた者と手に袋を持って戻って来た。

 女の前に、食べ物や飲み物が並べられると、再び章一郎が手を貸した。

「さあ、どれがいい?何が好きかな?これは?これ?こっちがいいかな・・・」

 章一郎は一つ一つ手に取りながら、女に何がいいか聞いていた。ようやく女が一つを手にすると、口にするのを黙って見ていた。

「おいしい?」

「うん・・・」

「そう、よかった。」

 ついに女が、章一郎の言葉に答えるようになった。それからは、あっという間の事だった。女は自分の事も、男との事も、そして、自分が連れ去られ、監禁されていた間の事も、全て洗いざらい話した。話し終えた女は晴れやかな顔になっていた。

 そんな様子を黙って見ていた男に、女は笑顔でパンの入った袋を渡した。男はそれを受け取ると夢中で食べ始めた。男は泣きながら食べた。

 女が男の頭を撫でてやると、男はさらに激しく泣き出した。男は食べ終わると、両手で涙を拭い、話し始めた。

 章一郎は孝行の隣りまで戻って来た。

「さすがです。」

 孝行がボソリとつぶやくと、章一郎は「うむ」と返した。

 男は、脅されていた者達から連絡用に渡された携帯端末と、もう一つ、自分のも取り出すと言った。

「この中に全て残してあります。」

 証拠が残らないように渡されたものだったが、男は自分のそれにデータのコピーをしていたようだった。

 拓実とライアンが調べると、その中にある文面が出てきた。

「ちょっと、これを見てください。」

 ライアンが顔色を変えてそう言った。章一郎と孝行がやって来て、覗き込んだ。

「その、ショウタロウという男の特徴を教えろ」

 章一郎は自分の携帯端末を取りだした。

「章太郎君は今、どこに?」孝行の言葉に、

「家にいるはずだが・・・」章一郎がそう言いながら画面を見ていた。

「何っ!出かけたようだ。学校に行くと言っている。」

「娘が呼び出したようです。何てことだ。」

「ダメだ、つながらん。」

 章一郎はそう言うと、部屋を飛び出した。孝行が後を追って呼び掛ける。

「家の車を使ってください。おい、すぐに娘の学校へ向かってくれ!」


 ミセス・ローズ記念学園から少し歩いた所、通りの角に24時間営業のファミレスがあった。かなり昔からある古い店だったが、学園に通う生徒達にとっては、定番のたまり場だった。

 広い店内は、普段、大勢の生徒で賑わっていたが、夏休みで深夜の今は客はまばらだった。

 窓際のテーブル席の一つに、章太郎と春奈が座っていた。

 輸血が終わった章太郎は、黒鉄医師の診断を受けた。異常はないので帰っていいと言われた章太郎は、もう一度駐車場に戻ると言った。それを春奈が止めた。

「鍛冶君はもう十分頑張ったじゃない。これ以上は無茶しないで。」

 珍しく声を荒げて、迫ってくる春奈に、章太郎は何も言えずに従った。休息と栄養が必要だと言う春奈に、章太郎は角のファミレスに行かないかと誘った。

 「初めてじゃないわよ。」

 章太郎の問いに春奈はそう答えると、メニューに視線を落とした。

「そうなんだ・・・」

 章太郎はメニューから視線を上げた。

「生徒会のみんなと帰りによく来るわよ。鍛冶君は?」

「クラスの奴らとよく来るかな?一人でも来るけど・・・」

「何にするか、もう決まった?」

「うん、決まったよ。」

 二人が注文を終えると、入り口付近が騒がしくなった。数人の男子高校生が、大声で話しながら入って来たのだった。

「あっ、鍛冶じゃないか!こんな所で何してるんだよ。」

「ホントだ、鍛冶だ!」

「誰かと一緒じゃないか!誰だよ!」

 章太郎の所までやって来た一同は、驚いて声を上げた。

「生徒会長じゃないか!」

「何でおまえと一緒にいるんだよ!」

「どういうことだっ!えっ、どういうことなんだよ!」

「おまえと生徒会長は・・・まさか、そうなのか?」

「いつの間にそうなったんだ!」

 問い詰める彼らに、章太郎は、生徒会の仕事を手伝っただけだと答えた。嘘はついていない、章太郎は心の中でそう言い聞かせた。

 その時、章太郎たちの席に料理が運ばれて来た。章太郎は、まだ疑っていた彼らの興味を反らせるために、逆に質問した。

「おまえたちの方こそ、こんな時間に何してたんだ?」

「オレ達、スノー・クイーンに会いに来たんだ。」

「えっ?」

 章太郎は補習の休み時間に、彼らが話していた事を思い出した。

「おまえら、本当にそんな事やってるんだ。暇な奴らだなぁ・・・」

「何だよ、いいだろ。オレ達の勝手だろ!」

「そうだよ、放っとけよ!」

「今、SNSで話題になってるんだぜ。」

「週末にクイーンが目撃されてるんだよ。」

「そうそう、おまえは知らないだろうけど。画像がたくさん上がってるんだ。」

「ほら、見てみろよ、これ。」

 章太郎はチラッと目線を送ると、「ふーん」と言っただけだった。

「まったく、これだから鍛冶は・・・」

「おまえぐらいだよ、SNS、1年に1回しか更新しない奴なんて。」

「もう、クラスの奴らだって、誰もフォローしてないぞ。」

「見てみろよ、フォロワー数、ゼロ!」

「あれ?一人だけいる、誰だ?こ、これって、まさか、生徒会長!」

「やっぱりおまえら、そういうことか?」

「何で、おまえなんだよ!許せん!」

 その時、彼らの席にも料理が運ばれて来た。店員から、「もう少し静かにお願いします」と言われたので、彼らは黙って食べ始めた。

 章太郎と春奈は急いで食べ終えると、彼らがまだ食べている間に店を出た。


 真夜中のミセス・ローズ・シティは、色とりどりの明かりに包まれていた。

 章太郎と春奈は、学園から伸びる並木道を歩いていた。

「あれから、どうなったかな?」

 章太郎が不意に言った。

「ごめんなさい。強引に連れ出してしまって・・・心配よね。」

 春奈がそう言った。

「心配は心配だけど・・・、でも、嬉しかったよ。一緒にいられて。」

「本当?」

「うん、本当。」

「そう、よかった。」

「ねえ、またどこかに出かけない?二人で・・・」

 春奈は章太郎を見た。

「いいわね。」

 章太郎は春奈を見た。

「本当?」

「うん、本当。」

「どこに行こうか?」

「どこがいいかしら?」

「行きたい所はある?」

「鍛冶君はあるの?」

「そうだなぁ・・・」

 その時、二人の後ろからものすごいスピードで近づいて来る一台の車があった。

 更に、前方からも近づいて来る一台の車があった。前方から来た車が二人の前に、横付けするように止まった。

 それとほぼ同時に、後ろから来た車も二人のすぐ横に止まった。

 その時、章太郎の携帯端末の着信音が鳴った。

 二台の車のドアが開き、数人の男達が飛び出して来た。二人は男達に取り囲まれ、体を押さえつけられた。二人の視界が急に暗くなると、そのまま別々の車に押し込まれた。

 二台の車のドアが閉まると、そのまま走り去った。

 


 


 

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