第21話 あの日からを話そう

「研修ね」

「うん」

「ホテルのドア閉めた瞬間、勝手に涙が出るんだよ」

「…うん」

「ベッドでもトイレでもシャワー中でも、身支度中も」

「…そう」

 

一通り泣いた娘は、ぽつりぽつりとあの頃の事を語り出した。私は何と言ってみようもなく、ただただ相槌を打っている。


「それを、気合いで止めて廊下に出るんだ。ホテルのロビーで、一緒に行った子と集合したとき、枕変わって寝れんかった!目がやばい!おはよう!て笑うの、気合いで」

「…」

「研修中は、真面目な顔で資料に書き込みもするし、ご飯のときはみんなで酒も呑んで笑って。また明日ねーってドア閉めたら、その瞬間また涙が出るの」

「そっか」

「帰ってきたら、白黒に緑の目が可愛かったあずきは、赤いケースに入ってた。軽かった」


 赤いカバーの骨箱を持ち上げるように、両手でそっと持ち上げる仕草をする娘。


「研修、休めばよかったのに」

「いや、社会人として無理でしょ。昨日猫が死んだので〜…て。新幹線始発だよ?」


 むりむり、と娘はその手をヒラヒラさせて笑った。


「骨壷は硬かった。一瞬、これはあずきじゃないと思った。ただの箱だわって。だってあの子あんなに硬くない。…ふかふかで、すべすべで、ちょっと獣臭くて(笑)」


 あずきの感触や、骨壷のそれを思い起こすように、何度か両手を握っては開く。


「でも、中でカランて鳴ったんだよね」

「…骨の音か」

「多分。その時実感した。これあずきなんだって。あずきは本当にいないんだって。どれだけ探しても、もう草負けして帰ってきたりしないんだって」

「ほんとあの子野良は無理だったよね」

「うちで保護しなかったらどうなってたか。…とにかく、その軽い音を聞いたら、全部どーでもよくなった。悲しいのも寂しいのも。もういいやって。あずきはここにいるし、もうあの変な声も草負けしたおハゲも、2度と見られない…。まあでも、愛想だけはいいあずきのことだから、きっと空の上でも誰かに甘えてんだろうな…って」


 娘は自分の言葉を鼻で笑って、自嘲ぎみに話し続けた。


「勝手にしてろ。こんな、病気見逃すような家族のとこにもう来なくていいからなって、思った。…思うようにした」


 そこまで言うと、娘は突然立ち上がって私を見下ろすと、口元だけで笑った。まるでそれが、おしまいの合図かのように


「さて、夕飯作るかー?」

  

 不意に始まるいつもの調子。


「あんたね、今あんたとあずきの話を…」


 呆れる私に、娘はニヤッと片頬を上げた。


「あの尻軽女のことは、もう充分語ったわ。…すべすべで、つるんとした手触りで、ほっぺはふかふかの女王様」

「尻軽って…まあ、少し思い出せたんだね」


 娘は、私の先を行きながら、『少なくともさ』と呟くように言うと

先程から棚の上に座っていた先住猫の胸毛を嗅ぐ。急な猫吸いも復活かと笑う私に


「こんな埃臭くて唾液臭くはなかったわ」


 振り向きながら言ったその顔は、寂しくも、どこかすっきりした笑顔だった。

その表情に、私にはこの子の長い長いペットロスが、少しだけ癒えた気がした。

 娘の隣に追いついて、私たちはまた話しだす。


「あとでお母さんとあずきの話も聞いてよ」

「は?ご飯作りながらね〜」

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