第13話 それどころじゃなかった

 脱走事件から数日後、やたらに太ももの内側を舐めるようになったあずきを心配して、私たち母子は例の動物病院にいた。

 診察室に入ると、何の指名もしてなくても、当然のように院長がお出ましだ。院長は、いつもの笑顔で、キャリーの中で足を踏ん張って『絶対に出てやらない!』と主張するあずきを、事もなげに抱き上げて診察台に出し、皮膚の状態を見てから、その部分にプレパラートにようなものを当てて検査にまわした。とはいえそれは念の為のことだったのか、結果が出る前に、最近のあずきの話を聞いた院長は、ひとしきり頷いてから断言した。


「お母さん、これねぇ…。皮膚が草の刺激に負けたの」


 これねぇの後に、委員長はたっぷり演技が勝った間を取って告げた。


「皮膚が刺激に負けた…剃刀負けみたいなことですか…?」

「そ。肌デリケートみたいだね、この子」


 尻付近を撫で回す院長の腕に、放しなさいよ!と言わんばかりに後ろ脚で蹴りをくらわせるあずき。次いで助けを求めるように前足を娘の方に伸ばす。以前は触診をされて無抵抗どころか、喉を鳴らして喜ぶことすらあったというのに、何という変わり様か。それでも院長は微塵も動じず、むしろ申し訳なさそうに笑って、ああ頑張ったね、こわかったね、もういいよごめんねぇと、あずきをキャリーに戻すと、私たちには穏やかだが真面目な表情を向けた。


「だってこの子、外にいたんですよ?草負けしてたら、短期間でもボロボロのハゲになりませんか?」


 私の疑問に、院長は言った。


「この子は恐らく捨てられたと言ったでしょ?知らない場所に置いて行かれて、可愛がってくれたはずの人はいない、家もない、ごはんもない。きっと短期間とはいえ、大きなストレスと不安の中、生存本能だけで過ごして必死だった。まあ、要するにー…」


 また謎の間。要するに?


「草負けなんて、してる場合じゃなかったんだろうね」


 拍子抜けする私達に、だけどほら見てごらん。と、院長はキャリーの扉を覗き込んだ。


「今は、頬はふっくらしてる、目は澄んで輝いてる。肋骨だって浮き出てなかった。声も変わったでしょ。それから、‘あの診察の時’から、僕が恐くて怒って、今なんてお嬢ちゃんに手(前足)を伸ばした」


 楽しそうに嬉しそうに院長は言う。それから、こちらに向き直ると、


「あなた達が、この子を家族に迎えた日からどれだけ大事にしてきたか、ひと目でわかった。だからこの子は安心して草負けも出来るようになったし、声も戻ったんだよ」


 ああ、やっぱりこの人は院長なのだと、あらためて思った。飼い主を喜ばせるパフォーマンスも、心配させない軽口も熟知している。

 動物病院からの帰り道、娘は言った。


「この子はうちの女王だよ?私の娘だよ?大事にするのなんて、当たり前だよねぇ」


 こんなに愛おしそうな声が、春から受験生になるとは言え、母の私から見たら、周りの子より精神的に幼くみえる我が子から発せられたのかと、内心驚いたのは内緒だ。

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