第8話 そんな事ある?

「…は?そんな事ある?」

 

 私の話を聞いた娘の第一声がそれだ。うん、やっぱり私の娘…。などと言っている場合ではない。おやつのじゃがいもスナックを、小気味いい音を立てて咀嚼していた娘を急かして車に乗せ、私たちは動物病院に向かった。


「お母さん達、急に来てもらってごめんね」


 院長は急いで来院した私達に、眉を八の字に下げ、いかにも申し訳なさそうに言った。診察台では、ややぼんやりしたあずきがうずくまっている。


「電話でもお伝えしたように、あずきちゃんのお腹には、薄らではあるけど、避妊手術と思われる手術痕がありました」


そう、私と娘が『そんな事ある?』と言ったのは、動物病院からの電話で、あずきがすでに避妊手術済みらしいと告げられたからだった。


「あずきちゃん、ちょっとお腹見せてね。麻酔が効いてから、ここの毛を剃ったんだけど…。ほら、ここに線状の傷があるのがわかりますか?」


 ここ、と院長が指差した、一部毛を剃られて鳥の雛のようなピンクの肌がのぞいている腹部の、人で言う下腹部の辺りに、確かに薄らとその線が確認できた。


「位置と長さから判断して、この傷は避妊手術によるものに間違いありません。だけどこの子、最近になって発情行動が出始めたんだよね?」

「そうです。半月前にそういう行動が始まるまでは、兆しすらなかったのに…」


 困惑する大人をよそに、娘はあずきのお腹に心を奪われ、『ふわぁ柔らかい…出来立ての求肥?』などと言いながら、毛を剃られた部分を撫で回している。

 あずきは一瞬怪訝そうな顔をしたが、撫でているのが娘だとわかるとホッとしたように見えた。

―…何をしてるんだ娘よ、私も触りたくなるからやめてくれ。


 院長の説明によると、ごく稀にしか起こらないが、可能性としては、前の手術で卵巣を取り損ねたのではないか?という。(本来は子宮をそっと引っ張ると、その先に卵巣があり、それを確認して取り除くそうだが、ものすごく稀に、手術経験の浅い獣医などでは卵巣を取り残す場合がなくはない…らしい)そして、再手術は可能だが、それはこの傷よりも大きく腹部を切開し、背中側にあるであろう卵巣を、他の臓器をかき分けて探すという。この手術は、小さな体のあずきには負担の大きなものであること、それ以外には、内服によってホルモンバランスを調整して、発情の症状を抑える方法もあるが、薬の影響もあり、将来糖尿病のリスクが上がるらしい。

 それを受けた私と娘は、ひとつの考えに至った。もしかしたら、以前飼われていた家でも病院で避妊手術を受けたが、それがうまくいかず発情行動が起きたが為に、元飼い主に捨てられたのではないか。勿論勝手な想像に過ぎないが、そうだとしたら、あずきは人間の都合で手術されて失敗した挙句、それを理由に放り出されたのだ。それなら、私たちは彼女にこれ以上の負担を負わせたくない。現に院長は、これまで発情の兆しが見られなかったのは、度重なる生活環境や栄養状態の変化で、ホルモンの分泌が追いついていなかったのかもしれない、と付け加えた。その上で、前述した2つの方法を提示して


「どちらの方法でもリスクはあるけれど、発情の症状は抑えられる。どうしますか?」


 との言葉に、私と娘は一度目を合わせてから迷う事なく


「どちらもさせません。手術の負担も、糖尿病のリスクも負わせたくない。確かに発情の症状は困りものですが、それがある事が、今のこの子の一番自然な体なら、この先も覚悟します」


 きっぱりと言い切った私と、大きく頷く娘を見て、彼は布袋様の顔で笑った。


「あずき、きみはいい家族を持ったね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る