★二〇一一年七月一日(金曜日)

 片側二車線の国道は渋滞していた。車列からは排気ガスを含む熱気がメラメラと立ち上っていた。渉は、その一台一台を右に左にバイクですり抜け続けていた。すり抜ける車は皆、ぴったりと窓ガラスを閉じていた。

 車列をくぐり続けると信号待ちの最前列で停車した。ヘルメットのシールドを上げ、足元を確かめた時、渉の鼻の先にあった汗がガソリンタンクの上に落ちた。赤信号の向こうを見ると、道の左側はどの車も、渉がすり抜けることが出来る程度の隙間を空けていた。

 信号が青に替わり、アクセルをひねった。ふとガソリンタンクに目をやった時、滴った汗はもうなかった。

 バイクを加速させた。止まっている車をすり抜ける瞬間、車はバイクのエンジン音を跳ね返す。車を抜き去ると、エンジン音は跳ね返らない。さらに前の車をすり抜けようとすれば、その車も同じようにバイクのエンジン音を跳ね返す。抜き去れば跳ね返らない。その繰り返しが渉の耳に慣れ、心地よくなり始めようとした時だった。

 アクセルをひねる右手と尻の感覚にズレを感じた。右手をさらにひねるが、加速を期待する尻は肩すかしを食い、マフラーは空咳をするように吹き抜けた。渉は左手で、ガソリンタンクのコックをひねり、リザーブに切り替えた。数秒後、バイクは振動を取り戻した。

 渋滞の車列を次々とくぐり抜けると、右側の車線が塞がれていた。その先では百メートル程にわたって、中央分離帯のガードレールを交換する工事が行われていた。道路を行く自動車やトラックは工事箇所をノロノロと進み、何とかして工事箇所を抜けると、鬱憤を晴らすように加速していった。

 渋滞を抜け、加速する車列の流れに乗ろうとした時、百メートルほど先にセルフのガソリンスタンドが見えた。バイクのスピードを緩め、左ウインカーを点滅させた。

 六つあった給油スペースは一カ所だけ空いていたように見えたが、渉が入る直前にメタルグレーのキューブが滑り込んだ。日差しが照りつけるガソリンスタンドの敷地の真ん中で、渉はバイクのエンジンを切り、ヘルメットを脱ぎ、給油スペースが空くのを待った。コンクリートはアスファルトほどには熱を照り返さなかった。渉は肩の力を抜いた。

 キューブの運転席から長身の女が降りるのが見えた。ストレートの黒い長髪が赤いタンクトップの背中を隠していた。破れたライトブルーのジーンズが女の大きな尻をまだなんとか大丈夫といった風に包み込んでいた。少しヒールの高いサンダルを素足で履いていた。

 女は車の前に回り込んだので顔が見えなかった。歩くと、ジーンズの尻が重く、かつ俊敏に揺れた。ボンネットを回ると、女の顔が正面から見える位置になったが、渉はさりげなく目を反らした。女は給油機のタッチパネルをさっさと叩くと、給油ホースをキューブの給油口に突っ込んだ。給油ホースを持つ女の白い二の腕が見えた。給油ホースから手を離すその腕は、その太さの割にはあまり肉が揺れなかった。女は左腕で顔の汗をぬぐい、背中を伸ばした。起伏の大きい体の線がはっきりと見えた。

「ンー……ガツッ」

 給油は止まった。女はそっと給油ホースを抜いた。わずかにガソリンの滴が垂れたのに渉は気づいたが、彼女は気にも留めぬ様子だった。

 女は髪を頭で軽く振り払った。給油口を閉じ、こちらの方を向いた。渉はかすかにその横顔を見た。凝視したい一瞬の誘惑にあらがえなかった。女の背後にある休憩所を眺めたつもりで、その手前にいた女の顔と体を凝視した。

 渉は、歩く女の動きに、自身を圧倒するかもしれない重みを感じた。女の背の高さを想像した。自分よりは二、三センチ位は低いだろうか。女は車の後ろを回り、運転席のドアを開けた。座席にまたがるようにして座り込んだ。地面に着いた右足が最後に見えた。ドアが閉まるとすぐにエンジンがかかり、車は給油スペースを後にした。

 渉は、またがっていたバイクを降り、その場所までバイクを押した。その時、他の給油スペースがとっくに空いていたことにやっと気づいた。給油機のタッチパネルを叩き、ガソリンタンクのキャップを開け、給油ホースを手に持った。給油ホースの取っ手はわずかに濡れていたように感じた。それは女の汗か渉の汗か、どちらのせいなのかはわからなかった。

 ガソリンの臭いがかすかに渉の鼻をついた。その臭いを肺の奥まで吸い込んだ。そっと息を吐き出すと、給油ホースをガソリンタンクにそっと入れた。

 給油ホースの取っ手の引き金を注意深く握ると、ガソリンはゆっくり流れ始めた。同時に、渉の額を汗が流れ落ちた。とっさに左腕で汗を拭った。

 唾を飲み込むと、引き金をいっぱいに握った。ガソリンの滴が給油口からわずかに噴き返るのが見えた時、引き金を離した。給油ホースがビクンと震えた。財布から千円札を取り出して精算機に突っ込むと、釣り銭が取り出し口のフタをわずかに揺らしながら落ちた。取り出し口に手を突っ込む。ジリジリとレシートを印字する音が聞こえ始めたが渉は無視した。ヘルメットをかぶり直し、エンジンをかけると、ガソリンスタンドを出た。

 道は高架になり、左手には海が見えた。おびただしいほどの小さな波のどれもが太陽の光を照り返していた。車は皆、同じ速度で等間隔を保って走っていた。目の前の車を一台また一台とたぐり寄せるように渉は追い抜いて進んだ。

 ブルドーザーを運ぶ大型トレーラーが車体の横から排気ガスの熱風を吹き付けた。渉はそれを体に受けながら、遠くに見えるメタルグレーのキューブを見つけた。トレーラーを抜き去ると、渉とキューブの間を遮る車はなかった。アクセルを全開にひねり、体を伏せた。

 キューブとの距離の縮み方はエンジンの回転数の上がり方と見事に一致した。

 キューブを抜き去ると、加速を緩めつつ、バックミラー越しに運転席を覗き込んだ。赤いタンクトップの女は渉に微笑みかけているように見えた。渉は速度を落とし、女との距離を保った。振り向きたい誘惑に駆られたが、バックミラーをじっと見つめた。その瞬間、照りつける太陽に雲が差し込んだ。

 先程までの強烈な日差しが嘘のようだった。渉は理解した。女は渉に微笑んでいたのではなく、歌っていたのだった。

 女の歌声を想像した。耳をすませようとした。聞こえてきたのは白バイのサイレン音だった。すぐに、バックミラーの視界には赤い光が入り込んできた。

「そこのバイク、左寄って」

 マイク越しに白バイの声が聞こえた。白バイはいつの間にか渉を追い越していた。渉は白バイに先導され、非常用の待避所で停まった。

「九十六キロだよ。ここ六十キロの道なんだけど。ちょっと出し過ぎちゃってるねー」

 渉は呆然として白バイの警官に向き合った。しかし、彼の焦点は警官に対しては定まっていなかった。渉の目にはその向こうの海が映っていた。海では相変わらず小さな波が太陽の光を照り返していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る