ドライブイン東海道

100chobori

☆二〇一二年十一月二十五日(日曜日)

 ガラス窓の外には穴のような暗闇が見え、その周りをほのかな橙色の光が包んでいる。時折、トラックやバイクの轟音が響き、その音量が頂点に達する瞬間、暗闇はその姿をかすかに左にしならせる。その後ろでは、白い光が右から左に流れ去る。

 渉は暗闇に目を凝らす。建物の天井から、煙草のヤニらしき薄い茶色のかかった蛍光灯の光がガラス窓に反射する。ガラスには、雑巾で上下左右に拭き取ろうとした跡が見えるが、汚れを十分に拭き取るには至っていない。跡は浮かび上がり、暗闇の奥を遮る。

 窓の下の方では、白いものが小刻みに震えている。渉は少し考えてからそれが何なのかを理解し、その場所に目を向けた。

 渉自身の両手だった。握りしめた両手の拳をテーブルの上に並べて立てていた。

「ぁんのやろう。こっちがおとなしくしてりゃあ調子に乗りやがって……」

 拳に力を込めれば込めるほど、細かく速く震えた。しかし、べとついたテーブルに接する手の平の側面はぴったりとくっつき、そこから位置を変えることはなかった。

 渉はこの日、富士にある製紙工場での夜勤を終え、藤枝にある自宅にバイクで戻る途中だった。

「正社員がそんなにえらいのか……ちょっとおれより運がよかっただけじゃねえか」

 秋が終わり、季節は冬に入ろうとしていた。震えながら、左のイスに置いた肩下げかばんに目を移した。渉は、バイクに乗っている間、このかばんがずっと背中にあったことを思い出した。体の前に置けば、もっと寒さを防げたのにと思い、奥歯を噛みしめたが、その奥歯も震えだした。

「……やめよう。ムカつくのは仕事してる時だけで充分だ。……やめ。やめやめっ」

 両手に目を戻した。両手で囲むテーブルの真ん中をじっと見つめながら「おれは今、天ぷらそばを食いたい」と念じ続けた。十回までは数えたが、それ以上は覚えていなかった。

 渉が見つめる先には、五百円玉よりは少し大きい程度の丸いプラスチックの札が置かれていた。札には、油性ペンで大きく2と書かれている。念じ続けるのが面倒臭くなった時、渉は思った。この番号が呼ばれるのと、両手の震えが治まるのとではどちらが先だろうか。

 人の匂いが抜けた煙草の煙が渉の鼻に入り込んだ。渉の背後のずっと奥から天井を伝って流れてきたものだった。フッと鼻息で吹き払ってみたが、乾いた匂いは抜け切らなかった。後ろを向くと、トラックの運転手らしき中年の男が、薄緑色の作業着姿で漫画雑誌を読みながら煙草を吸っていた。彼の背後には薄暗い、物置のような場所が見え、中には、全く光を発しないピンボールマシンが埃をかぶって置かれていた。

 首を後ろから戻して右の方を向くと、テーブルを二つ挟んだ向こうにカウンターと厨房が見えた。厨房では、腰の曲がり具合からかなり年配と思われる女性がたった一人、エプロン姿で調理を進めていた。その動きは見かけによらずキビキビとしていた。彼女の背後には、扉が半開きの勝手口が見え、その向こうには群馬県産キャベツの段ボール箱が扉の半分以上の高さで積み上げられていた。厨房の中は、カウンターの手前側よりもずっと白く明るい光で満たされていた。

 両手の間にある番号札に目を戻すと、渉はあることに気付いた。そのてっぺんには、細いひもが通るほどの小さな穴が空いている。この番号札は今でこそ、浅漬けのたくあんのような薄い黄色をしているが、最初はもっとはっきりした、合成着色料のような黄色をしていたはずだろう。

 渉は想像した。今までの間に、この札の穴に糸が通ったことがあるだろうか。何かがこの穴を通ったことはあるのだろうか。この札の黄色が薄くはげ上がるまでの長い間に、何かが穴を貫いたことが、たった一度でもあるのだろうか。

 番号札の穴を見据えた。この番号札は渉が天ぷらそばを注文した時に、厨房の女性から手渡された。まず、渉は自動券売機で天ぷらそばの食券を買い、厨房の女性に渡した。厨房の女性がカウンターより少しだけ奥にあった木の箱から番号札を取り出したのを渉は見た。厨房の女性は天ぷらそばの食券に赤鉛筆で番号札と同じ番号を書き、番号札を渉に手渡した。

 あと何分かすれば、厨房の女性がこの番号札の番号を呼ぶだろう。渉が厨房の女性に渡した番号札は木の箱に戻されるはずだ。箱といってもフタはなく、底が浅いものだった。中には同じ大きさで色違いの食券が何枚か置かれていた。箱の中に置かれた番号札が次に箱から出るのは、客から注文を受けた時だけだろう。また同じことの繰り返しだ。それとも、時々まとめて洗ったりするのだろうか。だとしても、今までの間に番号札の穴に何かが通った状況を、渉には想像することができなかった。

 テーブルの左に置かれていた爪楊枝の小瓶に、左手を伸ばした。瓶を持つ指にわずかなべとつきを感じた。爪楊枝を右手の指で一本取り出す時、指の震えが既に治まっていたことに、渉は気付かなかった。

 爪楊枝を右手で持ったまま小瓶を置いた左手で、テーブルの上の番号札をつかもうとした。親指と中指の爪を番号札とテーブルの隙間にもぐり込ませようとした。指に力を込めた瞬間、番号札は飛び上がり、カランカランと軽い音を立てて床に落ちた。

「こうやって今までも逃げようとしてきたんだろ」

 渉はそうつぶやきながらも、こんなことをしようとしているのは今までに恐らく自分一人だけだろうと思った。

 爪楊枝を右手で持ったまま床にしゃがみ込み、再び番号札に左手を伸ばした。先ほどと同じように、親指と中指の爪を潜り込ませた。しかし、先ほどよりは慎重に力を込めていった。まもなく番号札は渉の左手に収まった。

 中指の表面には砂粒のようなゴミと、短く縮れた毛がついていた。渉は小さく舌打ちをすると、番号札を挟んでいた中指の役割を人差し指に委ね、中指の表面を手の中でこすり、付いたものを払い落とした。

「二番の番号札でお待ちのお客様ー」

 厨房から甲高い声が響いた。その声に構うことなく、ゆっくりとした動作でイスに座り直した。番号札の穴を右手で構える爪楊枝の先端から真正面に構えると、爪楊枝をじりじりと近づけた。渉は津波を想像した。もう動き出しているこの出来事は、番号札にとっては逃れられない出来事だと渉は決めた。

「二番の番号札でお待ちのお客様ぁー?」

 甲高い声にはわずかな困惑と苛立ちが加わった。渉は小さく舌打ちをしたが、爪楊枝を番号札に近づけるのをやめなかった。

 爪楊枝の先端が番号札まであと一ミリまで迫ったところで右手を止めた。渉の口元が緩んだ。ゆっくり右手を番号札から離し、一呼吸した。再び、爪楊枝を番号札に近づけ始めた。

「二番の番号札のお客さん!」

 渉は右手を止めると、爪楊枝を持ったまま右手をテーブルに叩きつけた。ガンとテーブルが低く鳴ると、カラカラカラと加速する軽い金属音が響いた。爪楊枝入れの隣にあったアルミの灰皿によるものだった。咄嗟に左手を広げ、番号札をテーブルの上に落とすと、灰皿を上から押さえつけた。指の表面の水分がわずかに吸い取られた気配を感じた。灰皿の縁には煙草の灰が残っていた。

 灰を拭き払うことなく、テーブルの真ん中にある番号札を左手で掴んだ。灰の付いた指先と爪の間に番号札が割り込み、痛みを伴った。歯を食いしばり、小さくうなった。

「二番のお客さーん!」

 わかってるって言ってんだろっ。そう心の中で毒づいたが、渉は声には出していなかった。広げた左手の平を、番号札の真上に叩きつけた。再び、灰皿は加速する金属音を響かせ始めた。渉はそれを止めなかった。番号札の上にある手の平をテーブルに押しつけ、三秒待った。勢いよく左手の平をテーブルから離すと、番号札は手の平にぴったりと張り付いていた。

 番号札を握り直し、右手で持つ爪楊枝を番号札の穴に構えた。ゆっくりと、爪楊枝の先を番号札に近づけ始めた。

「おそばのびちゃうよっ?」

 右手が止まった。その右手を先に進めるかやめるかを一秒考えた後、渉はため息をつきながら立ち上がった。右手の爪楊枝を二つに折り、テーブルの上に放り出すと、カウンターに向かった。カウンターには、薄緑色のプラスチックのトレイの上に天ぷらそばの黒い丼が置かれていた。

 カウンターの上に番号札を叩きつけた。渉がトレイを両手で持ち、席に戻ろうとした時、厨房の女性は番号札を無造作に拾い上げ、小さな木の箱に放り込んだ。その瞬間を、渉は横目で確かに見届けた。

 テーブル席に座ると、渉は天ぷらそばの煙るような湯気の中にいた。割り箸ですくったそばに息を吹きかけ、夢中で胃の中に流し込んだ。そうし続けているうちに渉は、暖かさだけではなく、食べることをも欲していたということに気付いた。念じ続けていたことはまんざら嘘でもなかった。

 空になった丼をテーブルの前の方に押しやると、窓の方に顔を向け、テーブルの上で組んだ両手の上に頭を乗せた。

 あの番号札の穴に爪楊枝を貫けなかった。渉は自問自答した。そんなことに何の必然性があるって言うんだ。できようができまいが、何も変わらないのに。ゆっくり深呼吸を続けながら、同じ問いと答えを心の中で繰り返した。そうすることで次第に、吐く息がゆっくりになっていく気がした。

 電話のベルが店内にジリジリと鳴り響いた。渉は心臓をわずかにびくつかせた。それが自分の意志ではないことに不満を覚えた。

 どうなるかなんて、どうもならなくてもどうでもいい。問題なのは、たったそれだけのことができなかったってことだ。渉の心に再び波風が立ち始めようとした。

 電話のベルは五回鳴って止まった。

「はい、東海道です」

 厨房の女性の声が響いた。その声は厨房の中からよく響いた。食券の番号を呼んだ時とは随分違う、柔らかい調子の声だった。

「東海道」

 渉はつぶやいた。ここは静岡市の外れ。市街を南西に抜けて山あいに入り、宇津ノ谷峠を先に控えた国道一号線沿いのドライブイン「東海道」だった。

「そうなんだよ。東海道……そうだ。ここが東海道。ここからだったんだ。始まったのは……」

 加速するトラックの突き上げるようなエンジン音が響いた。渉が眺める外の暗闇は、油断していたように少し大きく左に揺れた。

 外の暗闇が、天ぷらそばを食べる前に見た時よりも少し小さく見えるような気がした。しかし、それをすぐに忘れた。暗闇の奥をじっと眺めていると、その先に星空までもが見えるような気がした。

 渉は抑えつけるようにゆっくりと目を閉じた。去年の夏の景色が渉のまぶたに蘇った。

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