第9話「戦の幕開け、畑に迫る人間軍」
夜が明け、魔界の赤黒い空が少しずつ薄桃色に染まる頃――。
遠くで角笛の音が響いた。
「……始まったな」
畑の端で鍬を握りしめた俺は、小さく息を吐いた。
胸が痛いほどに早鐘を打つ。
でも、後戻りはできない。
「きゅいっ」
足元のハルゥも緊張しているのか、低く鼻を鳴らしていた。
「人間軍の先発が森を抜け、こちらへ向かっているとの報告です!」
黒竜将軍グレイオのもとに魔族の斥候が駆け込んでくる。
「数は?」
「五百ほど……だが、後詰めがさらに千。火術師部隊も確認されています」
「火術師か……やっかいだな」
グレイオは長い尾をばしんと地面に叩きつけ、苛立ちを露わにした。
「奴らは瘴気を嫌い、魔界に深入りせぬ。だが……今回は畑を狙ってくる」
「……俺のせいですね」
小さく呟くと、グレイオはがしっと俺の肩を掴んだ。
「違う。これはお前のせいではない。余らが選んだ道だ」
その紅い瞳は真剣で、どこか優しかった。
「お前はお前の畑を守れ。鍬を振れ、いつも通りに。それだけでいい」
「……はい」
やがて、地平線に人間の軍勢が現れた。
灰色の甲冑を纏い、槍と盾を掲げた歩兵隊。
その後方には赤い法衣を羽織った火術師たちが控え、手には小さな炎の球を浮かべている。
「やっぱり……本当に来たんだな」
思わず膝が笑いそうになる。
でも、それを必死に押し殺した。
ハルゥが低く唸り、俺の前に立ちはだかるように身を低くした。
「きゅぅ……」
「大丈夫。お前は畑を頼む。俺は――」
鍬を握りしめ、深く息を吸い込む。
「――畑を守るだけだ!」
「突撃ー!!」
人間の軍勢が一斉に動いた。
地面が揺れ、砂が舞い上がる。
その最前列に立つのは槍兵たち。
無言のままこちらへ突き進んでくる様は、恐怖そのものだった。
(くそっ……足が動け……!)
視界が狭くなる。
心臓が耳元で爆発しそうに暴れ、膝が折れそうになる。
そのとき――。
「――退けぇ!!」
重い声が響いた。
次の瞬間、グレイオの黒い巨体が空から降り立ち、地面を砕く。
「ぬぅぅぅあああっ!!」
咆哮とともに黒炎を吐き出すと、人間の先頭の隊列が一瞬で炎に呑まれた。
「ぎゃああああああっ!!」
火柱の中で人間たちが悲鳴を上げ、隊列が崩れる。
さらにその隙を突いて、ルキナ率いる魔族の精鋭部隊が横から突撃した。
「魔剣隊、斜めから叩け! 火術師を狙え!」
ルキナの声は鋭く冷たいが、俺にはどこか安心できる音だった。
「リク! 畑に近づけるな! お前は下がっていろ!」
「でも俺は……!」
「お前は畑を見てろ! それがお前の戦場だ!」
赤い瞳が強く俺を射抜く。
思わず頷くと、ルキナは剣を振り上げ、人間の槍兵の中へと飛び込んでいった。
剣戟の音、悲鳴、火球が弾ける爆音。
全てが混然となって世界を揺らした。
「きゅいっ……」
ハルゥが小さく震えている。
「……大丈夫。絶対に、ルキナ様たちが守ってくれる」
俺は自分に言い聞かせるようにそう呟き、畑を見渡した。
緑の葉が風に揺れ、畝の間をそよぐ。
(絶対に、誰にも踏ませやしない……!)
もしもの時は――この鍬で、俺は畑を守る。
剣も魔法もなくたって、俺のこの手は畑を耕すためにあるんだ。
「きゅっ!」
ハルゥが前足を土に突き刺し、威嚇するように唸った。
「そうだな。お前も一緒だもんな」
その時、遠くで人間の軍旗が燃え上がるのが見えた。
魔族の反撃が確実に進んでいる。
(……ルキナ様)
赤い瞳の騎士の姿を思い浮かべる。
必ず帰ってくる。
そう信じて、俺は鍬を握りしめた。
「俺は農民だ。畑を守るのが、俺の――」
心が不思議と静かになった。
(――俺の、戦いだ)
魔界の空に、血と炎の匂いが漂う中で。
俺は畑の真ん中に立ち尽くし、そっと葉に触れた。
小さな緑が、震えながらも陽を目指して伸びていた。
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