第10話「血の匂い、剣戟の向こうに」

戦の音は途切れなかった。


剣戟がぶつかる金属音、怒号、悲鳴、炎が爆ぜる音。

その全てが遠くから、いや畑のすぐ向こうから響いてくる。


俺は畑の畝に膝をつき、小さくなって震える芽をそっと包んでいた。


(大丈夫、大丈夫だ。お前はちゃんと守るから……)


手のひらに触れた葉は、怯えたように僅かに揺れた。

頭では分かっている。植物に心なんてない。

それでも――今は、俺の手の中で確かに怯えているように感じた。


「……ごめんな、俺なんかの畑に生まれちまって」


「きゅっ」


ハルゥがそっと俺の腕に体を寄せた。

小さな体はいつもより強張っている。


それでも、その温もりは確かで。


「……ありがとう、ハルゥ」


俺は鼻の奥がつんとして、必死に涙を堪えた。


「突撃! 魔族どもを蹴散らせぇ!」


人間の軍勢の怒号が聞こえた。


次の瞬間、畑のすぐ先の丘を槍を持った兵士たちが駆け下りてくるのが見えた。


「……くそ!」


俺は咄嗟に立ち上がり、鍬を握りしめた。


膝が震える。

心臓が破裂しそうだ。


(無理だ。人間の兵士なんかと戦えるわけない。鍬で何ができる……)


でも。


「……畑は、踏ませない!」


鍬を地面に突き立て、足を広げて構えた。


ハルゥが「きゅいっ!」と吠え、俺の前に飛び出して立つ。


人間の兵士が驚いたようにこちらを見た。


「なんだただの農民か。構わず潰せ!」


槍がこちらに向かって振り上げられる。


(ああ、終わる――)


そう思った、その時。


「――退けぇっ!!」


鋭い怒声が響いた。


直後、俺の目の前を黒い影が横切り、槍兵の身体を真横に薙ぎ払った。


「がっ……あ……!」


血飛沫が舞い、槍が地面に落ちる。


その血の中に立っていたのは――ルキナだった。


「ル、ルキナ様……!」


「下がってろと言っただろう!」


ルキナの赤い瞳が、怒ったように俺を射抜く。


剣の切っ先から血が滴り落ち、それでもルキナは視線を逸らさなかった。


「……だが、いい目をしていた」


「え……?」


「お前は戦えぬ農民だ。それなのに、畑を守るために立っていた。その目は……立派な戦士の目だ」


ルキナは小さく笑う。


「だからもう安心しろ。お前はお前の畑にいてくれ。私が……お前の畑を守る」


次の瞬間、ルキナは背を向け、再び剣を構えて人間の兵士の中へ飛び込んだ。


赤いマントが翻り、その剣筋が銀色に輝く。


「きゅいっ!」


ハルゥが飛び出しそうになるのを、俺は必死に抱きしめた。


「……俺は農民だ。剣じゃない、鍬を振るう。ここでお前らを……守るからな」


もう一度畑に向き直り、俺は鍬を地面に突き立てた。


その時、土の奥で小さな根がぴくりと震えたように思えた。


戦はしばらく続いた。


魔王軍の奮戦で、人間軍はついに退き始めた。


丘の向こうに軍旗が遠ざかり、再び荒野は静寂を取り戻し始める。


「……終わった、のか……?」


ぐったりと腰を下ろすと、ハルゥが膝に飛び乗ってきた。


「きゅぃ……」


「ありがとな、お前も頑張ったな……」


俺は小さく笑い、畑を見渡した。


土は所々踏み荒らされ、葉も何枚か千切れている。

それでも、ほとんどの苗はしっかり根を張って、空を目指していた。


(……強いな、お前らは)


小さな芽の逞しさに、胸が熱くなる。


「……リク」


声に顔を上げると、そこには血に濡れた剣を持ったルキナが立っていた。


鎧の肩口が裂け、白い肌から血が流れている。


「ルキナ様……怪我……!」


「大したことはない。それより……」


ルキナは俺の目の前にしゃがみ込み、そっと鍬を持つ俺の手に触れた。


「よく……守ったな」


赤い瞳が細まり、小さく笑う。


「お前はやはり……ただの農民じゃない」


「……俺は、農民ですよ」


堪え切れず、涙が一筋だけ頬を伝った。


ルキナはその涙をそっと親指で拭い、小さく囁いた。


「ならば誇れ。その鍬で、私たちの未来を耕したことを」


魔界の空はまだ赤黒い。

けれどその下で、俺は確かに小さな緑と――小さな未来を守り切ったんだ。

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