第8話「人間の軍旗、暗雲の気配」
「……あれは?」
畑の畝を整えていた俺は、視界の端でなにかが揺れるのを見つけた。
遠く、荒野の地平線に立つ黒い影。
最初は枯れ木かと思った。だが風が吹き抜けると、その影は旗だと分かった。
「……人間の軍旗?」
小さな声が自然と漏れる。
瘴気を嫌って人間がこの地に来ることはほとんどない。
それでも、わざわざ魔界の境まで攻め込むとなれば――理由はひとつ。
「魔王軍に圧力をかけるため……」
「察しがいいな、人間よ」
背後から掛けられた声に振り返ると、そこには黒竜将軍グレイオが立っていた。
真っ黒な鱗に包まれた腕が、無造作に肩に置かれる。
「近頃、人間どもはお前の畑の噂を聞きつけた。魔族が食糧難を克服しようとしている、と恐れおののいてな」
「それで……牽制に来たんですか」
「ああ。まずは境界線をうろつき、次は小競り合いを仕掛けてくるだろう。そうなれば、戦は避けられん」
グレイオの尾が地面を打ち、砂埃を巻き上げた。
「俺の畑のせいで……戦争が早まるんですか?」
「戦争など千年続く日常よ。お前が気に病むことではない」
言葉ではそう言いながらも、グレイオの目は僅かに沈んで見えた。
「リク」
畑に戻ると、そこにはルキナがいた。
甲冑を脱ぎ、軽い衣だけを纏ったその姿は、いつもよりずっと近く感じた。
「人間の軍が見えたそうだな」
「はい」
「……戦になる」
短く言い切るその声は、どこか冷たい。
だがそれは恐らく自分を律している声だ。
「畑はどうするつもりだ?」
「どうするって……」
俺は少しだけ言葉に詰まった。
正直、怖い。
人間の軍が本格的に攻め込んできたら、俺なんかひとたまりもない。
でも――。
「守ります。ここは俺が作った畑ですから」
「ふふ、馬鹿だな」
ルキナはそう言うと、そっと俺の前髪に触れた。
「お前は農民だ。剣も魔法も持たない。それなのに畑だけは命を懸けて守ろうとする」
「……バカですから」
「知っている」
ルキナの指先が俺の頬に触れ、ほんの少しだけ撫でた。
「だが、そういうお前だから……私は畑を守りたいと思う。だからもう一度剣を取る。お前の畑を守るために」
頬が熱くなる。
「……ありがとうございます」
「礼など要らぬ。だが、約束しろ」
「約束?」
「この戦が終わったら――私と一緒に、またこの畑で昼寝をすることを」
ルキナの赤い瞳が揺れる。
その光は、剣のきらめきよりもずっと優しくて。
「……はい。絶対に」
俺はしっかりと頷いた。
その夜。
魔王城の戦議の間では、人間軍への対応が話し合われていた。
俺も招かれ、片隅で小さくなっていた。
「人間の軍勢は三千。騎馬隊に火術師が多数。恐らくは本格的に攻め込む気だろう」
「ふん、望むところだ」
黒竜将軍グレイオは黒い爪を鳴らし、笑った。
「だが被害は抑えねばならぬ。何より……リクの畑は戦場に近い」
魔王ゼルヴァが口を開いたとき、場の空気が少し張り詰める。
「リク・タカナシ」
「……は、はいっ!」
思わず背筋を伸ばす。
「戦は避けられぬ。だが余はお前の畑を守りたい。お前の畑は――魔族にとっても、もうただの食糧ではない」
ゼルヴァの真紅の瞳が俺を射抜く。
「守り切れ。剣も魔法もなくとも、お前の畑を――」
「はい……!」
小さく、けれど力強く答えた。
会議のあと、俺は畑に戻ってハルゥを抱き上げた。
「守れるかな……俺なんかに」
「きゅいっ!」
ハルゥが小さく吠えた。
「そうだよな……やるしかないよな」
夜の風が、畑の葉を揺らして通り過ぎる。
あの緑を――魔族たちの笑顔を、絶対に失いたくなかった。
「俺は農民だ。剣なんかなくても、絶対に守る」
静かにそう呟き、俺は鍬を握りしめた。
魔界の夜空は黒く重い。
でも俺の胸には、小さな畑の緑が光っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます