第4話「初めての魔界畑、芽吹く緑」

「――芽が、出た……」


荒れた魔界の大地に、小さな緑が顔を覗かせたその瞬間。

思わず膝から力が抜け、地面に尻をついてしまった。


指先に触れたその芽は、まだか弱く柔らかい。

そっと葉を撫でると、小さく震えてこちらに応えるように揺れた。


「やったな……! やったじゃないか、俺!」


胸の奥が熱くなる。


魔界に来てから、まだ十日ほど。

この短い間に何度も心が折れかけた。

土は硬く、瘴気が強い。

村で作ったような肥料はここでは効きにくく、思うように耕作は進まなかった。


それでも、腐りかけた獣の骨を砕き、魔界に自生する特有の菌糸を混ぜ込んだ特製堆肥を作り――

井戸から汲んだ水をハルゥの魔力で浄化しながら撒き続け――


ようやく。


「きゅいっ!」


足元でハルゥが嬉しそうに鳴いて跳ねた。

その尻尾が俺の指に触れ、小さな火花のような魔力が飛び散る。


「ありがとな、ハルゥ。お前がいなかったら、きっとここまでこれなかった」


「きゅーん!」


ハルゥは俺の胸元に飛び込み、鼻先で顔をこすりつけてきた。

魔界の生き物だなんて嘘みたいに、温かくて優しい奴だ。


「……これが、お前の畑か」


背後から聞こえた声に振り返ると、ルキナがいた。

いつもの漆黒の鎧に、今日は薄い紗のマントを羽織っている。


「はい。まだほんの少しだけど……」


俺は控えめに笑った。


畑と言うにはまだ狭い。

せいぜい人間の家の庭先くらいの大きさで、芽が出ているのは十本にも満たない。

でも――それでも、俺にとっては希望の塊だ。


「ふん。……初めて見た。魔界の地に、こんな瑞々しい緑が芽吹くところを」


ルキナはそっと膝をつき、葉に触れた。

その白い指先を見て、少しだけ心臓が跳ねる。


「お前は、本当に人間なのか?」


「え……?」


「普通、人間はこんな地で畑を作ろうなどとは思わぬ。命を惜しんで逃げるだけだ」


ルキナは俺を見つめる赤い瞳を細めた。


「……なのに、お前はここで畑を耕すことを選んだ」


「俺は……農民ですから」


少しだけ照れくさく笑ってみせる。


「どこだろうと関係ないんです。土と向き合って、芽が出て、育って……収穫して、誰かが喜んでくれる。それが俺の全部ですから」


ルキナは一瞬、何か言いたげに口を開きかけて、それを閉じた。


そして次に見せた表情は――小さく、恥ずかしそうに微笑んだものだった。


「……そうか。ならば、存分に耕すがいい」


「はい!」


「さーて、次は畑を広げるぞー!」


俺は立ち上がり、鍬を肩に担いだ。


魔王ゼルヴァがわざわざ鍛冶職人を呼び寄せて作らせた“魔銀鍬”。

通常の鍬より軽く、それでいて岩盤すら砕ける優れものだ。


「ハルゥ、次の区画も頼むぞ!」


「きゅいっ!」


ハルゥが地面に鼻先を押し付け、くんくんと嗅いで回る。

やがて小さく鳴いて俺を振り返る。


「そこだな! よし、掘るぞ!」


鍬を振り下ろすたび、鈍い音を立てて土が砕ける。

振り下ろす。掘り返す。手を突っ込み、石を拾い上げる。

この作業は何度やっても飽きない。俺にとっては呼吸のようなものだ。


気づけば周囲に魔族たちが集まってきていた。

彼らは最初こそ俺を訝しむ目で見ていたが、今では一緒に石を運び、土を篩いにかけてくれている。


「人間の農民、力は弱いが、動きに無駄がないな」


「見てみろ。水脈の繋ぎ方も絶妙だ。腐り水が逆流しない」


「……やはり、この男はただの人間ではないのかもしれぬ」


そんな声があちこちから聞こえてくる。


それを聞きながら、俺は嬉しさを隠しきれずに笑った。


「よし、この調子でどんどん広げていくぞ!」


夕暮れ。


作業を終えた俺は小さな畑の前に立っていた。


まだほんの一角だけど、確かに緑は広がりつつある。

魔界の赤い空と、瘴気の流れる風の中で――その緑は、まるで小さな奇跡のようだった。


「……なぁハルゥ。いつかこの畑を、もっともっと広くして――魔界を緑でいっぱいにしようぜ」


「きゅいっ!」


ハルゥが尻尾を振って答える。


その時、遠くからルキナがこちらを見ているのが見えた。

赤い瞳がどこか優しく揺れていた。


俺は手を振ってみる。


ルキナは少しだけ目を丸くし――それから、ほんのわずかに手を上げて応えた。


魔界の大地に、確かに変化の風が吹き始めていた。


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