第23話 三百十七の名前

 記録局。


 その日の放課後、正面玄関から入ると守衛が声をかけてきた。


 「ご用件は?」


 「マルクス様に——」


 守衛の表情が変わる。


 「お名前を」


 「カノンです」


 守衛が頷いた。


 「お三方ですね。マルクス様から伺っております。二階の執務室へどうぞ」


 三人は、何も言わずに階段を上る。


 マルクスの執務室の前で、カノンは立ち止まった。


 ノックしようとして——


 「……入りたまえ」


 扉の向こうから、マルクスの声がした。


 カノンは、扉を開けた。


 マルクスは窓辺に立っていた。


 「来ると、思っていた」


 三人は室内に入った。


 「……本当に」


 カノンが声を絞り出す。


 「マルクスさんが、あの村を——」


 否定してほしかった。でも、マルクスは窓の外を見たまま、長い沈黙の後に答えた。


 「そうだ」


 その声は静かだった。あまりにも静かで、まるで自分自身にも言い聞かせるような響きがあった。


 カノンの膝から力が抜け、壁に手をついた。隣でリアナが小さく息を吸い込む。


 ミレーネは筆記具を握ったまま動かない。ペンの先端が、わずかに揺れている。


 マルクスが机の上の資料を手に取り、机に置く。


 カノンは、それを見た。住民記録。手書きの名前が並んでいる。


 「私は、三百十七人の名前を知っている」


 資料を一枚一枚めくりながら、マルクスは続けた。


 「一人一人の名前を、年齢を、職業を——全員、覚えた」


 その資料には、丁寧な文字で名前が記されていた。消えてしまった人々の、最後の証。


 「忘れないために」


 マルクスの手が資料の端を掴む。


 「……なぜ」


 「せめてもの、贖罪だ」


 マルクスが資料から顔を上げる。


 「——いや」


 マルクスの手が、わずかに震える。


 「贖罪になどならない。それは、わかっている」


 マルクスの視線が、資料の上に落ちる。カノンの視線も、リアナの視線も。


 三人とも、羊皮紙に記された名前を見つめている。


 リアナが声を出した。


 「でも、他に方法はなかったんですよね」


 「……そう願いたい」


 マルクスが窓辺へ歩く。


 「……どうやらこの世界は、何かの犠牲を前提としているらしい」


 その声は、絶望していた。


 「理論は、正しかった」


 「でも——」


 ミレーネが口を開いた。


 「正しいかどうか、わからなかったはずです」


 マルクスが動かない。


 「もし——もし仮説が間違っていたら」


 「三百十七人は、ただ——」


 ミレーネの手が、筆記具を握る。白くなった指先。


 マルクスは窓の外を見ている。


 「……そうだ」


 やがてマルクスが、静かに答えた。


 「賭けだった」


 「もし間違っていたら——三百十七人は、何の意味もなく消えた。私は、ただの——」


 マルクスの声が途切れる。


 窓ガラスに映る自分の顔を、じっと見つめている。


 カノンの呼吸が止まり、言葉が喉に詰まる。三百十七人。望んでいなかった。こんな形で守られることなど。


 でも——


 リアナが、消えていたかもしれない。


 ミレーネが、消えていたかもしれない。


 カノンの拳に、力が入る。


 もし——もし、自分がマルクスさんの立場だったら。


 リアナが消えるか、見知らぬ村の三百十七人が消えるか。選べ、と言われたら——


 クラウス村。三百十七人。


 名前も顔も知らない。でも、一人一人に人生があった。家族がいた。朝起きて、仕事に行って、夜に帰る。そんな当たり前の日々が、あった。


 選べない。


 でも、マルクスさんは選んだ。その重さを、一人で背負って。決断した。


 僕は何も知らなかった。クラウス村の三百十七人が消える日、僕は学院の寮で眠っていた。朝起きて、授業に出て、友達と昼食を食べた。何日も後に新聞で知った時、初めて理解した。僕は、ただ守られていたのだと。三百十七人の犠牲の上で。


 リアナも。ミレーネも。僕も。


 望んでいなかった。知らなかった。


 でも、それが現実だ。


 カノンには、見えた。


 アストラルコレクションは、存在する。理論ではなく、現実として。この世界は——誰かを消去し続けることで、維持されている。


 三百十七人の犠牲が、それを証明した。


 ミレーネが声を絞り出した。


 「でも——それは」


 「間違っている、と言いたいか?」


 マルクスが振り返る。


 「——私も、そう思う。だが、間違っているからといって、変えられるわけではない」


 窓辺へ歩く。


 「世界は、正しくない。理不尽で、残酷で、不公平だ。それでも、世界は続く」


 窓の外には王都の街並みと人々の営みが広がっている。


 「あの人たちは、知らない。自分たちが守られていること。そのために、誰かが犠牲になったこと」


 マルクスの声が途切れる。


 「それでいい、と私は思った」


 マルクスが資料を手に取る。窓ガラスに映る自分の顔を一瞬見て、ページをめくる。その音が、静かな部屋に響く。


 「だから、せめて名前だけは覚えよう、と。彼らのことを、忘れないために」


 カノンは、その資料を見つめた。


 三百十七人。


 一人一人の名前。年齢。職業。


 クラウス村の、すべての住民。


 リアナが目を閉じ、ミレーネは動かない。カノンだけが、マルクスを見つめた。


 「……あなたは、間違っていたと思いますか」


 マルクスはしばらく窓の外を見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


 「わからない。だが、もう一度同じ状況になったら、私は同じことをするだろう」


 その声には、揺るぎがあった。諦めに似た何かが。


 「……僕たちに、何か出来ることはありますか」


 マルクスが振り返った。


 「……何もしなくていい」


 「ただ——」


 少し間を置いて、続けた。


 「生きてくれ。君たちが、生きて、学んで、成長して——いつか、この世界を、少しでもマシにしてくれるなら」


 マルクスが三人を見つめる。


 「それが——私にとっての、唯一の希望だ」



 記録局を出て、三人は王都の通りを歩いた。


 夕暮れの光、いつもの風景、人々の笑い声。何も変わらない。


 でも、すべてが変わっていた。


 王都の空を見上げる。茜色に染まり始めた空。白い雲が橙色を帯びている。鳥が一羽、ゆっくりと飛んでいく。


 どこかで子供たちの笑い声が聞こえる。市場から、パンの焼ける匂いが漂ってくる。王都の、いつもの夕暮れ。


 三百十七人の犠牲の上に成り立つ、平和な夕暮れ。


 カノンが口を開く。


 「マルクスさんは言った。生きて、学んで、成長しろ、と」


 リアナとミレーネが、カノンを見る。


 「いつか——この世界を、少しでもマシにしろ、と」


 三人は、黙って歩き出した。

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