第22話 答えの代償

 記録局。


 マルクスは階段を駆け上がり、三階の廊下へ出た。机に向かっていた職員が顔を上げて会釈する。頷いて通り過ぎ、機密保管室の前で立ち止まった。


 重厚な鉄の扉。記録管理官の立ち会いがなければ、開かない。


 マルクスは管理室の扉をノックした。


 「はい」


 中から声がした。扉を開けると、記録管理官のヴィルヘルムが机から顔を上げた。三十年この局で働いている白髪の老管理官。


 「マルクス様」


 ヴィルヘルムが立ち上がる。


 「機密保管室を開けてほしい」


 ヴィルヘルムは一瞬だけマルクスを見つめ、それから頷いた。


 「……承知いたしました」


 鍵を手に取る。



 機密保管室。


 ヴィルヘルムが重い鍵を差し込み、ゆっくりと回す。鈍い金属音が廊下に響いた。扉が開く。


 中に入る。壁一面の書棚に古い資料の束が並び、埃の匂いが漂っている。


 「何をお探しですか?」


 ヴィルヘルムが尋ねる。


 「失踪事件に関する資料。設立時の文書も」


 「……すべて、ですか」


 「ああ」


 ヴィルヘルムは書棚へ向かい、一つ、また一つと資料を取り出していく。マルクスも手を伸ばして書棚から資料を取り、二人で机の上に積み重ねていった。


 窓の外で、王都の鐘が鳴った。四時半。


 『今日中に、答えを出す』


 アルヴィンは、そう言った。


 日没まで、あと二時間半。


 ヴィルヘルムが、最後の資料を机に置いた。


 「……三十年、この職にありました」


 ヴィルヘルムが静かに言った。


 「記録を守ることが、人を守ることだと、そう信じてきました」


 マルクスは、机の上の資料を見つめた。


 「最近の失踪事件の報告書は、毎朝、私の机に届きます」


 ヴィルヘルムが続ける。


 「一件、また一件と」


 「知っている」


 マルクスが答えた。


 ヴィルヘルムが布袋を取り出す。


 「これを」


 差し出し、二人で資料を袋に詰めていく。ヴィルヘルムが袋を閉じてマルクスに渡した。


 「これですべてです」


 ヴィルヘルムが、まっすぐにマルクスを見た。


 「お役に立てれば」


 マルクスは袋を受け取り、ヴィルヘルムを見た。


 「……必ず」


 ヴィルヘルムが頷く。


 「はい」


 保管室を出ると、ヴィルヘルムが重い扉を閉めた。鍵を回す音が、廊下に響く。マルクスが歩き出す。


 「マルクス様」


 背後からヴィルヘルムの声が聞こえて、マルクスは足を止めた。


 「どうか——」


 ヴィルヘルムの声が途切れる。振り返ると、ヴィルヘルムが深く頭を下げている。その白髪が、夕陽に照らされていた。


 マルクスは頷いた。


 それから、廊下を歩き出した。



 階段を下りて一階へ出ると、執務室の前を通り過ぎる。


 「——だから、もう少し検討を——」


 中から声が聞こえる。上層部の会議。マルクスは足を止めず、正面玄関へ向かった。


 守衛が扉を開ける。王都の通りに出ると、夕暮れの光の中で人々が家路を急いでいる。


 マルクスは石畳の通りを、走り始めた。



 扉が開き、マルクスが入ってきた。息を切らして、記録局の資料の束を抱えている。


 「失礼します」


 アルヴィンが振り返る。


 「マルクス君」


 マルクスは資料を机に置いた。


 「記録局の過去の失踪事例です」


 地図を広げる。赤い印が、王都の外縁部に集中している。


 「かつては——記録が残らない辺境の村、忘れられた集落でのみ、失踪が起きていました」


 マルクスが別の地図を取り出す。今回の失踪事例。赤い印が、王都の中心部、学院にも散らばっている。


 「しかし今は——」


 アルヴィンが頷いた。


 「王都の中心部でも、学院でも、起きておる。記録も残る、人も密集している——そういう場所でも」


 アルヴィンがマルクスを見た。


 「記録局の保護は、絶大な効果があった。保護された者は消えず、守られた」


 地図を指す。


 「今や記録局の保護は、ほぼ全域に広がっている」


 間を置く。


 「しかし、その結果——」


 マルクスの手が、わずかに震える。


 「世界を保つ力が限界を超えたのじゃ。いわば——世界が暴走し始めておる」


 マルクスが顔を上げた。


 「本来なら保護されているはずの者も、消されかけている」


 アルヴィンが窓の外を見る。


 「あくまで仮説じゃ。確かめるすべもない」


 マルクスは地図を見つめ、資料を見つめ、何も言わない。


 カノンは、マルクスの横顔を見ていた。


 窓の外で馬車が通り過ぎ、遠ざかっていく。


 マルクスの手が資料の端を握る。


 やがてマルクスが頷いた。ゆっくりと、小さく。


 「……そうか」


 声は、かすれていた。



 マルクスは窓辺へ歩いた。日が沈み始め、街に灯りが灯り始めている。


 「世界を保つ力が、足りない」


 マルクスの声が途切れそうになる。


 「ならば」


 窓枠を握る手に、力が入る。


 言葉が、喉に詰まる。


 王都の鐘が、時を告げた。五時。


 マルクスは窓ガラスに映る自分の顔を、見つめていた。


 窓ガラスが、わずかに曇る。


 やがてマルクスの手が窓枠を離れ、肩を正した。


 「……急用を、思い出しました」


 全員が顔を上げる。ヴェルニカが立ち上がる。


 「マルクス——」


 アルヴィンの手が上がり、ヴェルニカの言葉を制した。


 マルクスがアルヴィンを見る。二人の視線が交わる。


 数秒。


 アルヴィンの目が、わずかに細められる。


 マルクスが頷いた。


 リアナの手が、ペンダントを握りしめる。


 「マルクスさん——」


 マルクスが振り返る。


 目の下に深い隈。でも、背筋は伸びている。


 「記録局の仕事です」


 リアナが息を吸う。何か言おうとして、言葉にならず唇を閉じた。


 カノンの視線が動く。リアナの白い手。アルヴィンの静かな背。ヴェルニカの握られた拳。


 「君たちは——心配しなくていい」


 マルクスが扉へ歩く。背中が、どこか小さく見えた。


 「必ず——守る」


 扉が閉まり、靴音が遠ざかる。


 誰も、何も言わなかった。



 石畳の通りを、三人は歩いた。


 カノンが口を開く。


 「リアナ、何か、わかるの?」


 リアナは歩き続けて、やがて首を振った。


 「……わからない」


 風が石畳を撫でていく。


 「ただ」


 リアナが立ち止まり、足音が消えた。


 「マルクスさんが、何かを……」


 言葉が出ない。


 アルヴィン先生の言葉が蘇る。


 『世界を保つ力が、底を突きかけている』


 『本来なら手を出してはならぬものにすら——』


 もし——


 「いえ」


 リアナが首を振る。


 「考えたくない」


 ミレーネが、リアナの手を取った。


 「大丈夫」


 カノンが頷く。


 「マルクスさんは、僕たちを守るって言った」


 リアナは何も言わず、ペンダントを握ったまま歩き出した。



 三日後。


 学院での失踪事件が、止まった。


 四日後。


 王都市街での異常も、収まった。


 五日後。


 記録局が公式発表を出した。


 「異常事態は解消されました」


 それだけだった。


 マルクスの言葉。


 『必ず守る』


 本当に守ったのか?


 何をして?



 六日後。


 学院の食堂。昼休み。


 「聞いた? 北方辺境の村が……」


 隣のテーブルから、声が聞こえてきた。


 「クラウス村だっけ。村人全員が、行方不明らしい」


 カノンの手が止まる。


 「三百人以上って」


 三百人。


 カノンの呼吸が、止まった。


 リアナとミレーネが、同時に顔を上げる。


 カノンが立ち上がった。


 「すみません」


 隣のテーブルの学生が、顔を上げる。


 「今の話、どこで?」


 学生が、手元の新聞を示した。


 「今朝の王都日報です。ほら」


 新聞を広げる。


 三人が覗き込む。


 『北方辺境クラウス村 住民全員の行方不明を確認』


 記事は小さく、王都の祭典準備の記事の下に追いやられていた。まるで、遠い土地の出来事は誰も気にしないとでも言うように。


 カノンが、その記事を読む。


 「クラウス村を訪れた商人が異変を報告。村は無人で、建物や家財は手つかずのまま残されていたという。記録局が調査を開始——」


 リアナの手が、ペンダントを握りしめる。


 「いつから、消えていたのか……」


 記事には書かれていない。


 ミレーネが、小さく息を吸った。


 カノンの視線が、記事の最後の行に留まる。


 「住民登録によれば、村の人口は三百十七名」


 三百十七人。


 カノンの手が、テーブルの端を掴む。


 マルクスの言葉。


 『必ず守る』


 守った。


 王都を。


 学院を。


 僕たちを。


 リアナの手に握られたペンダント。穏やかな水色の光。もう赤く変わることはない。


 安全。


 守られた。


 でも——


 「マルクスさんに会わないと」


 リアナが立ち上がった。声が、わずかに震えている。


 カノンとミレーネが頷く。


 三人は、食堂を出た。

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