第4話 まだ君のこえが届くなら

 三階のI組教室。午後の陽光が窓から差し込み、羊皮紙を白く照らしている。


 「リアナさんは、ヴァーレント式の魔力圧縮理論を三層構造に拡張する案についてどう思いますか?」


 突然の呼びかけに、リアナは羽根ペンを取り落としそうになった。


 栗色の髪の女子生徒が、期待に満ちた表情でこちらを見つめている。周りの生徒たちも興味深そうに議論に耳を傾けていた。


 「……そうですね、とても興味深いアプローチだと思います」


 咄嗟に答えながら、心の中では焦りが広がっていた。


 ヴァーレント式の魔力圧縮理論を三層構造に? 理論自体は理解できるけれど、どんな文脈でその話が出てきたのか、議論の流れをまったく聞いていなかった。


 「さすがヴェル=クレア家ですね。やはり視点が違います」


 相手は満足そうに微笑んで話を続ける。けれどその笑顔は、リアナには厚いガラス越しのように遠く感じられた。期待の眼差しは「リアナ」ではなく、「ヴェル=クレア家の令嬢」に向けられている。


 リアナはふと窓の向こうへ目を向けた。渡り廊下の先、階下に見えるII組の教室。あの小さな窓の向こうで、カノンは今、どんな顔をしているのだろう。



 一週間が過ぎていた。


 II組の教室でカノンは一人、使い込まれた革の鞄に教本をしまい込んでいた。


 手を止めて、ふと窓の外を見つめる。


 あの日以来、リアナとの間には透明な壁が立ちはだかっていた。彼女のことを思うたびに、胸の奥に針で刺すような痛みが走る。


 それでもカノンは、これで良かったのだと自分に言い聞かせていた。


 自分のような一般家庭の学生が、名家の令嬢である彼女の足かせになるわけにはいかない。彼女にはI組の優秀な人たちと切磋琢磨し、さらに高い領域へと歩んでいってほしい。それこそが、彼女のためなのだから。


 けれど、自分を納得させようとするほど、胸の痛みはより一層激しくなる。


 靴音が石の廊下に響く。カノンはうつむいたまま、一歩一歩を重く歩いていた。



 同じ頃、I組の教室では授業が続いていた。


 毎日、授業中のリアナの視線は窓の向こうへさまよっていた。白髪の教授が黒板に描く術式も、熱心な議論も、すべてがガラスの向こうの音のように遠い。


 カノンとの最後の会話から、もう一週間。彼が距離を置こうとしている理由は、頭では理解できる。それでも——このままでは、二人の間にあったものが完全に失われてしまう。


 窓の向こう、階下の廊下をカノンが歩いていく。


 教授がまだ説明を続けている。しかし、リアナはもう我慢できなかった。


 椅子を蹴って立ち上がると、教室にざわめきが起こる。リアナは構わず、教室を駆け出した。



 学院の渡り廊下。石の柱が連なり、大きな窓から夕日が差し込んで、石畳の上に長い影を作っている。


 カノンは歩きながら、無意識に足を止めていた。いつものように寮まで歩いてしまえば、今日も何も変わらない。明日も、明後日も、ずっと同じように——


 前方から急ぎ足の音が響いてくる。石畳を蹴る靴の音、荒い呼吸。顔を上げたカノンの目に、金色の髪をなびかせたリアナの姿が飛び込んできた。


 いつもの優雅さが影を潜めている。ローブが乱れ、髪は汗で額に張り付いていた。


 「カノン……」


 彼女の声はかすれ、上手く呼吸ができていないようだった。


 「どうして私から逃げようとするの?」


 カノンは目を逸らした。


 「リアナは、僕なんかと一緒にいるより、もっと相応しい——」


 「そんなの、私が決めること!」


 声が廊下に反響し、カノンの耳を打った。いつもの穏やかさの影もない、心の奥から絞り出したような声だった。カノンは面食らった。


 リアナの荒い息遣いだけが石の廊下に響いている。カノンは何と言えばいいのか分からずに立ち尽くした。


 「僕は——」


 言葉が続かない。夕日が少しずつ傾いて、廊下の影が長くなっていく。


 やがて、震え声で絞り出すように。


 「君がどんどん遠くへ行ってしまうのが、怖かった」


 「私だって!」


 リアナの声が石壁に跳ね返る。でも、すぐに静寂が戻った。


 しばらくして、今度は小さく、震えるような声で。


 「私だって……カノンに遠ざけられるのが——」


 声が詰まり、続きが出てこない。喉の奥で言葉が引っかかって、どうしても先が言えなかった。リアナの目尻に涙が溜まっている。


 「——怖かった」


 やっと絞り出した声は、かすれて震えていた。その涙が、カノンの胸を鉛のように重くした。


 「リアナは特別で、努力家で、全部持ってる人だから」


 カノンの声がかすれる。久しく口にした本音は、自分でも驚くほど惨めな音色を帯びていた。


 「僕みたいな、何の取り柄もない人間が側にいたら——」


 「カノン」


 リアナが袖で涙を拭う。まだ涙声だが、何かを決意したような響きがあった。


 一歩近づく。震えはまだ残っているが、瞳に少しずつ強さが戻ってくる。


 「私は……特別なんかじゃない」


 その声に、カノンは顔を上げた。


 「たくさん間違えて、たくさん泣いて、失敗してきた」


 リアナの声が震えている。けれど、しっかりとカノンを見つめている。


 「I組にいても、いつも一人だった。みんなと話が合わなくて、いつも取り残されてる気がして……」


 リアナが小さく息を吐く。


 「カノンが私にくれた言葉や、一緒に練習した時間があったから、今の私がいる」


 涙が一筋、リアナの頬を伝った。


 「カノンは、私にとって大切な友達なの」


 リアナが涙を拭う。


 「カノンと話してると、もう少しがんばろうって思えるの。カノンがいてくれるから、私は強くいられる」


 リアナが涙で顔をくしゃくしゃにしながら、それでも笑った。


 カノンは何と言えばいいのか分からなかった。胸がいっぱいで、言葉がうまく出てこない。


 「リアナ、僕は……」


 涙で滲んだ視界の向こうで、リアナも同じように涙を拭っている。


 「ごめん、僕が勝手に——」


 「ううん、私も勝手だった」


 リアナが袖で目を拭う。まぶたが重い。


 「カノン、私……うまく言えないけど」


 「うん」


 「でも、このままじゃ嫌」


 カノンが頷く。まだ涙声だけれど、心が軽くなった。


 廊下に二人の影が伸びている。まだ少し震えていた。



 その夜、カノンは一人寮の部屋にいた。


 窓の外はもう暗くなっていたが、眠りにつくことはできなかった。


 リアナの涙に濡れた顔が、まぶたの裏から離れない。


 「カノンは、私にとって大切な友達なの」


 あの言葉が、胸の奥でやまない。


 カノンは手で顔を覆った。彼女を傷つけてしまった。


 机の上に広げられた魔術の教本。今まで何度も挫折してきた高等術式の数々。


 でも、今夜は違った。せめて、君と同じ高さに立ちたい。もう逃げない。


 カノンは教本を開いた。



 授業が終わると、誰よりも早く図書館へ向かう。


 上級者向けの理論書を何冊も借りるが、その内容はほとんど理解できない。それでも諦めずに、分かる部分だけでも書き写し、手当たり次第に試していく。


 目標は、リアナのような完璧な光の球。初めての光魔法の授業で歓声が上がった、あの美しい光。


 夜は明け方まで勉強を続ける。目の下に隈ができ、頬はこけていく。それでも諦めない。


 努力の成果はすぐには現れなかった。理論書の内容は相変わらず難しく、実技でも思うようにいかない日が続く。でも、もう逃げ出したいとは思わなかった。リアナの言葉が、心の奥で燃え続けている。



 数日後の朝、II組の教室。


 「おい、無理すんなよ。ひどい顔してるぞ」


 痩せた体に大きすぎるローブを着たエディが、椅子にふんぞり返りながら心配そうに声をかけてくる。


 「ちょっと遅くまで勉強してただけだよ」


 「……無理しても良いことないって。どうせ俺らはII組なんだから」


 いつもの諦めたような口調だが、友達を気遣う気持ちは本物だった。エディが肩をすくめながら、小さくため息をつく。



 ある日の放課後。空いている実技室で、カノンは一人光魔法の練習を続けていた。疲労で頭がぼうっとしている。それでも、諦めない。


 カノンは羊皮紙に書き込んだ数式を見つめた。魔力の放出パターンを解析し、最適な制御周期を計算してきた。リアナの完璧な球体には及ばないかもしれない。でも、君に追いつきたい——


 カノンが光魔法の詠唱を始める。手が震える。でも、心だけは澄んでいる。計算通りに魔力を制御し、放出量を調整する。


 何度も、何度も。


 そして——ふわり。


 手のひらに、小さな光の球が浮かんだ。


 初めて光魔法の授業で歓声が上がった時のリアナの光——あの完璧な球体と比べればずっと小さい。


 でも、確実に同じ種類の、安定した光。


 カノンは手を見つめた。ついに、彼女と同じものを生み出せた。


 小さく息を吐く。


 「カノン……やったね」


 聞き覚えのある、優しい声。振り返ると、実技室の入り口にリアナが立っていた。いつもの整った金色の髪、深いブルーの瞳が温かく微笑んでいる。


 「うん」


 カノンが頷く。


 「やっと、一歩前に進めた気がする」


 リアナが近づいてくる。


 「すごく安定してる。魔力の制御がとても丁寧」


 リアナが感心したように光の球を見つめた。


 「そうだ、カノン。前から伝えようと思ってたんだけど」


 リアナが口を開いた。


 「実は、編入制度っていうのがあるらしいの」


 「編入制度?」


 カノンが身を乗り出す。リアナは頷いて続けた。


 「父から聞いたんだけど、成績次第でクラスを移ることができる制度があるって。父もこの学院の卒業生だから、そういう制度があることは知ってるの。ただ、詳しい条件とかは分からないけれど……」


 編入制度。そんなものがあるなんて。


 カノンは静かにその言葉を受け止めた。どれほど困難な道なのか、想像もつかない。それでも——


 「ありがとう」


 カノンが静かに答えた。


 「僕は、やってみる」


 君に追いつくために。

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