第3話 言葉のあいだにできた距離
三ヶ月後。クラス分けの発表日。
カノンはII組、リアナはI組。予想していた通りの結果だった。
是が非でも同じクラスに、という淡い期待は、やはり現実のものにはならなかった。
◆
クラス分けから一週間。
リアナの新しい教室では、静寂が支配していた。
黒板にすらすらと書かれる複雑な術式文と補助定理。生徒たちは各自の机で黙々と新しい魔術の"型"を試している。詠唱はほとんど聞こえない。I組の生徒たちにとって、詠唱せずに魔法を使うのは既に当然のことだった。
「今日の課題は、既存の防御術式を改良しなさい」
白髪の教授が計算尺を黒板に向け、複雑な術式文を空中に描き出す。深灰色の長衣の袖を翻しながら、いつものように理論への情熱を込めて語る。
「手段も方法も問わない。失敗を恐れず、工夫すること——それが最も大切です」
誰もが既習の魔術を組み直し、より効率的な形を模索している。
「発表は午後。思いついた案はどんどん試していい。ここは答えのない教室ですから」
教授の表情がふっと緩む。
一方、カノンたちの教室は——
賑やかな声が響いている。
「じゃあ、今日はこの防御術式をみんなで詠唱してみよう」
穏やかな中年の教授が、生徒たちを見回す。茶色の髪に温厚な表情、手には生徒たちと同じ基礎教本を持っている。
教授は黒板に向かい、白墨で防御術式の構造を丁寧に書き始めた。I組の教授のような華麗な魔力文字ではないが、その分かりやすい図解に生徒たちは集中する。
「間違えても大丈夫。正しく詠唱できるまで何度も練習しましょう」
生徒たちは教授の読み上げる通りに、声をそろえる。黒板の文字列を目で追いながら。
「はい、ラ、ミナ、エス!」
「……カノンくん、もう一回ね。音がひとつ抜けていたよ」
教授の声には叱責ではなく、励ましが込められている。
「焦らず、一つ一つ確実に。基礎がしっかりしていれば、必ず上達しますから」
教本の手順通りに、基礎と反復を重ねていく。
個性も工夫も、今はまだ求められない。ただ"正解"を体で覚える時間。
休み時間。
カノンは窓の外を眺める。ふと視線を上げると、渡り廊下の向こう、上階の静かな教室が見えた。
リアナもまた、分厚い術式の羊皮紙を抱え、窓際から下を見下ろしていた。ガラス越しに、二人の視線が交わる。
窓の向こうとこちら。対照的な二つの教室。
一方では探求と創造の自由が、もう一方では基礎の確実な習得が行われている。
どちらも魔術を学ぶ道。ただ、歩む速度が違うだけ。
それぞれの場所で、それぞれのペースで、世界は少しずつ広がっていく。
◆
放課後の石段。
落ちる影が、少しずつ長くなっていく。
カノンは開いたままの教本を見つめていた。防御術式の図面が、何度見ても同じ形のまま、そこにある。
放課後の校舎に、静寂が漂う。
「カノン?」
振り返ると、リアナがいた。夕陽が彼女のローブを照らしている。
リアナは何も言わずに、隣に座る。
「今日はどんな感じだった?」
リアナが尋ねる。
「教本通りにしか、できないんだ。計算で分析はしてみるけど、実際の術式は基本形から変えられなくて」
カノンが教本を指さす。基本的な術式の図面が網羅されている。
「そっちはどんな感じ?」
「教本は開くんだけど、魔力の流し方とか自分で考えろって感じ。先生は理論を説明してくれるけど、結局自分で研究しなさいみたいな」
「すごいな……」
カノンが感嘆する。
「でも私も、最初はまったくできなかった。みんな必死にやってるんだよ」
リアナの声に、わずかな焦りが混じった。カノンの「すごいな」という言葉に、どこか遠い距離を感じてしまう。
「I組も大変なんだね」
「うん……でも、カノンの方が本当はすごいと思う。計算で魔法を理解するなんて、誰も思いつかないよ」
「そんなことないよ。リアナの方がずっと上手だし」
その言葉は、確かに本心からのものだった。でも、どこか届かない。
沈黙が二人を包む。夕陽が、ゆっくりと校舎の向こうに沈んでいく。
「明日も、がんばってみる」
カノンがつぶやく。リアナはうなずいた。
「私も……毎日、必死なんだ」
「でも、リアナはすごいよ。やっぱり特別だと思う」
言葉が、リアナの胸に小さく刺さる。
自分の努力を伝えたい。でも、それは自慢に聞こえるかもしれない。苦労を語っても、言い訳のようで。
カノンもまた、リアナの優しさを感じながら、その距離を埋められない。
石段の影が、さらに長く伸びていく。
二人はそれぞれの場所で、今日も静かに努力を続ける。
◆
数日後の朝。
上階の教室。リアナを囲む声が響く。
「やっぱりヴェル=クレア家の魔術は格が違うね」
「私のところは三代前から宮廷魔術師よ。やっぱり血筋って大事よね」
「昨日の術式改良課題、私は家の秘伝を応用したの。さすがにこのクラスなら、そういう工夫も当然よね?」
リアナは静かに頷きながら聞いていた。でも、心の中では違う声が響いている。
こういう話ばかり……カノンと話していた時とは全然違う。
カノンとの図書館では、魔法の仕組みについて純粋に議論できた。彼の計算を使ったアプローチは新鮮で、家柄や血筋とは無関係の、学びそのものへの情熱があった。
「リアナさんはどう思う?」
急に話を振られ、リアナは戸惑う。
「えっと……みんなそれぞれ工夫してて、すごいと思う」
「さすがヴェル=クレア家、謙虚だね」
心が沈む。ここでは、自分はただの「ヴェル=クレア家の令嬢」でしかない。一人の学生として、一人の人間として見てもらえない。
カノンは、私を私として見てくれていたのに……
昼休み。カノンは窓辺で羊皮紙をめくる。
視線を上げる。渡り廊下の向こう、リアナが新しい友達と歩いている。楽しそうな声が、ガラス越しにかすかに届く。
良かった……リアナはI組で上手くやってるんだ。
本当はそう思いたかった。でも、心の奥では気づいている。あの笑顔は少し作られたもので、彼女が図書館で見せてくれた自然な表情とは違うことを。
それでも、これでいいのだと思おうとする。リアナには、自分にふさわしい世界がある。自分のような平凡な生徒が側にいては、彼女の足を引っ張ってしまうかもしれない。
リアナには、もっとレベルの高い人たちと切磋琢磨してほしい。それが彼女のためなのだから。
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥で小さく痛むものがあった。
◆
放課後、カノンが教室で荷物をまとめていると、後ろから声がかかった。
「カノン」
振り返ると、リアナが立っている。
「今日も一緒に練習しない?」
その声に、ほんの少しだけ切ない響きが混じっているのをカノンは感じ取った。でも、それは彼の決意を余計に固くするだけだった。
カノンは笑みを作る。明るく見えるように、意識して。
「大丈夫。リアナはみんなと練習してきなよ」
言葉が続く。本当は一緒にいたい。でも——
「リアナはもっとふさわしい仲間と一緒にいた方がいい。僕とじゃ、リアナの時間がもったいない」
リアナの眉が、かすかに寄る。その表情に、戸惑いと傷ついた色が浮かんだ。
「私は、カノンと話すのが好きだよ」
その言葉には、心からの想いが込められていた。
「あのクラスの人たちって、いつも誰かと競争してるの。家でも学院でも、常に何かと比べられて……カノンといると、そういうのを忘れられる。私を私として見てくれるから」
リアナの声が震えた。でも、カノンにはその想いが届かない。いや、届いているからこそ、彼は身を引こうとする。
「でも、それだとリアナが困るでしょ? クラスメイトに悪く思われたら……」
選ぶ言葉が増えるほど、距離は開いていく。お互いを想うが故に、すれ違っていく。
リアナは何か言いかけて、飲み込んだ。彼の想いを理解したからこそ、それ以上は言えなかった。
「……分かった」
その言葉に、諦めと理解と、小さな絶望が込められていた。
夕焼けが二人の影を伸ばす。
これでいい。でも胸の奥が、どうしようもなく苦しい。
それでも、あの図書館で過ごした午後のことは、きっと忘れない。リアナが自分の分析を「面白い」と言ってくれた時の笑顔も。彼女が「私を私として見てくれる」と言ってくれた言葉も。
これで正しかったのか、答えは分からない。
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