第5話 裏切りの影と聖女の決意
カイの心は、リリスの魔性の囁きと、騎士団内部からの疑念によって、深く沈んでいた。聖女を護りたい一心で戦った結果が、新たな疑念と孤立を生む。彼の胸中には、行き場のない怒りと、己の無力さへの絶望が渦巻いていた。
大聖堂の自室に戻ったカイは、ベッドに座り込み、天井を仰いだ。右腕の傷がズキズキと疼く。それよりも、心の傷の方が深かった。
「俺は……何をすればいいんだ……」
自問自答を繰り返す。聖女を護りたい。その思いは揺るがない。しかし、闇の力に誘惑されたあの瞬間、確かに心は揺らいだ。それを、リカルドたちに見咎められ、ゼノン隊長にまで疑念の目を向けられた。
その時、コンコンと扉がノックされた。
「カイ様、アメリアです。少し、お話よろしいでしょうか?」
アメリアの声に、カイは慌てて身体を起こした。
「ああ、どうぞ」
アメリアが部屋に入ると、その顔には、心配と、そして何かを決意したような表情が浮かんでいた。彼女の手には、温かいお茶の入ったカップが二つ。
「お疲れでしょう。どうぞ」
アメリアは、カイに一つ差し出した。カイは無言でそれを受け取り、一口飲む。温かいお茶が、冷え切った心にじんわりと染み渡る。
「……リリスのこと、聖女様にも報告しました」
アメリアの言葉に、カイは思わずカップを置いた。
「聖女様は、何か仰っていましたか?」
「はい。聖女様は、『カイは、決して闇に堕ちたりしない』と、そう仰っていました」
その言葉に、カイの胸が締め付けられた。疑心暗鬼に陥る自分とは裏腹に、リリアーナは、彼を信じてくれていた。
「それに、聖女様は、あの魔族の女の言葉は、あなたの心を惑わすための罠だと、そう仰っていました。決して、真に受けないでください、と」
アメリアの言葉は、カイにとって、何よりも力強いものだった。しかし、心の奥底に沈んだ闇は、そう簡単に消え去るものではない。
「ありがとうございます、アメリアさん……」
カイは、絞り出すように礼を言った。
その時、アメリアは、ふと視線を落とし、迷うように口を開いた。
「……あの、カイ様。実は、もう一つ、ご報告が……」
アメリアの声には、どこか躊躇いがあった。
「ゼノン隊長と、リカルド様たちが……聖女様への『贄』の神託について、総長に強く意見しているそうです」
カイは、目を見開いた。
「どういうことだ……?」
「彼らは……聖女様の命を犠牲にすることで、闇の王の復活を阻止すべきだと……。そう、総長に迫っていると……」
アメリアの声は、震えていた。その瞳には、恐怖と悲しみが滲んでいた。
「馬鹿な……!」
カイは、怒りに震えた。聖女を護るべき騎士たちが、その聖女の命を差し出せと要求しているというのか。
「彼らは、聖女様の意識が戻ったばかりなのに、このまま闇の王の力が強まれば、聖女様は贄として意味をなさなくなると……」
アメリアの言葉に、カイの脳裏に、リリアーナの顔が浮かんだ。彼女の、諦めと悲しみが混じった笑顔。そして、「私の運命なのだから」と呟いた声。
「……ゼノン隊長も、か?」
カイは、信じられない思いでアメリアを見た。あのゼノン隊長が、自分を罵倒しながらも、どこかで騎士としての矜持を持っていたはずだ。
アメリアは、俯いて答えた。
「はい……。ゼノン隊長も、総長に同意しているようです」
カイの胸に、深い絶望が広がる。騎士団が、聖女を裏切ろうとしている。
「……俺は……絶対に、聖女様を、贄になんかさせない……!」
カイの身体から、微かに青白いオーラが漏れ始めた。それは、怒り、悲しみ、そして、強い決意の表れだった。
翌朝。
大聖堂の広間では、神殿騎士団の幹部会議が開催されていた。議題は、もちろん聖女リリアーナの『贄』の神託についてだ。
「聖女様を贄とすることは、避けられない。それが、この世界の、そして聖女様の運命なのだ!」
ゼノン隊長が、感情的に叫んだ。彼の顔は、疲労と憔悴でやつれている。
「ゼノン!貴様、何を言っている!聖女様の命を、易々と差し出すなど、騎士としてあってはならないことだ!」オスカー団長が、テーブルを叩きながら怒鳴る。
「団長!現実を見ろ!このままでは、闇の王が完全に復活し、世界は滅ぶのだぞ!聖女様は、そのために、自ら犠牲になる覚悟を持っておられる!」
ゼノンは、激しく反論した。彼の言葉には、狂気にも似た、ある種の使命感が宿っていた。
「それは、聖女様ご自身の言葉ではない!貴様らが勝手に決めつけることではない!」エミリア隊長が、冷たい声で反論する。
リカルド、レオナルド、セシルたちも、ゼノン隊長に同調し、聖女の犠牲を主張していた。
「エミリア隊長!そんな感傷的な理由で、世界を滅ぼすつもりですか!?」リカルドが、憎々しげに言い放つ。
「そうだ!聖女の盾などと、得体の知れない力を持つ平民を重用した結果がこれだ!やはり、貴族の血筋こそが、この国を護るのだ!」レオナルドが、カイを暗に批判する。
「私たちが聖女様の代わりになるなんて、絶対に嫌よ!」セシルが、自分の身の安全を主張した。
レオニダス総長は、腕を組み、沈黙していた。その表情は、苦悩と、そして何かを諦めたかのような色が滲んでいる。
その時、広間の扉が、ゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは、聖女リリアーナだった。純白の衣を纏い、その顔には、わずかな疲労の色はあるものの、凛とした気品が漂っている。彼女の傍らには、アメリアが控えている。
「聖女様!なぜここに……!」オスカー団長が、驚いて声を上げた。
「皆様の議論が、私のために行われていると聞き、黙っているわけにはいきませんでした」
リリアーナの声は、静かで、しかし広間全体に響き渡るような力強さを持っていた。
「私の命が、この世界の希望となるならば、私は喜んで、その身を捧げましょう」
リリアーナの言葉に、広間は静まり返った。ゼノンたちは、安堵の表情を浮かべ、オスカーとエミリアは、絶望に顔を歪ませた。
「聖女様っ!そんなことは……!」オスカーが叫ぶ。
「どうか、お止めください!聖女様は、この世界の希望です!」エミリアも、必死に訴える。
リリアーナは、そんな彼らの言葉を遮るように、静かに、しかしはっきりと告げた。
「これは、私が、この世界の希望たる聖女として、下した決断です」
その言葉は、まるで氷のように冷たく、そこにいる全員の心を凍りつかせた。
その瞬間、広間の隅に立っていたカイの全身から、激しい青白いオーラが噴き出した。彼の瞳は、怒りに燃え上がり、蒼い光を放っている。
「聖女様っ!そんなこと、俺が許さない!」
カイは、その場にいた誰もが予測できない速度で、リリアーナの元へと飛び出した。そして、彼女の前に立ちはだかり、剣を構えた。
「カイっ!?」
リリアーナは、目を見開いた。
「貴様、何を企む!?」ゼノンが叫び、剣に手をかける。リカルドたちも、一斉に剣を抜いた。
「聖女様は、誰にも渡さない!ましてや、贄になどさせない!」
カイの声は、怒りに震えていた。そのオーラは、以前よりもさらに強く、荒々しい。
「カイ!邪魔をするな!」ゼノンが、カイに斬りかかった。
カイは、ゼノンの攻撃を、青白いオーラを纏った剣で受け止める。キン!という金属音と共に、火花が散る。その一撃は、ゼノンの腕を痺れさせた。
「なっ!この力は……!」
ゼノンは、驚愕の表情を浮かべた。カイの剣から放たれる力は、彼が知るどの騎士よりも強大だった。
「聖女様を、贄になどさせません!俺が、この命に代えても、聖女様を護ります!」
カイの言葉は、リリアーナの心に、激しい衝撃を与えた。彼の瞳に宿る、強い意志と、純粋なまでの忠誠心。
「貴様ごとき平民が、聖女様の運命を変えられるとでも思っているのか!」リカルドが、背後からカイに斬りかかった。
カイは、視線を向けずに、剣を横薙ぎに振るった。青白いオーラが、リカルドの身体を弾き飛ばす。
「ぐあっ!」
リカルドは、そのまま壁に叩きつけられ、意識を失った。
「リカルド!」レオナルドとセシルが、驚愕の声を上げた。
「エミリア隊長!オスカー団長!どうか、聖女様を連れて、ここから逃げてください!」
カイは、背後を振り向かずに叫んだ。彼の全身からは、未だに荒々しい青白いオーラが噴き出している。
「カイ殿……!」エミリアは、カイの覚悟に、目を見開いた。
「行かせないぞ、カイ!貴様は、聖女様への冒涜者だ!」
ゼノンが、再びカイに斬りかかった。カイは、その攻撃を真っ向から受け止めた。
剣と剣がぶつかり合う。火花が飛び散る。その度に、広間の地面に亀裂が走る。
カイの身体は、限界を迎えつつあった。全身から汗が噴き出し、呼吸も乱れている。だが、彼は、聖女を護るという一心で、その場に立ち続けていた。
「聖女様!今です!私が、道を開きます!」
エミリアは、剣を構え、レオナルドとセシルに斬りかかった。オスカー団長も、怒りに燃えながら、ゼノン隊長の隙を突き、リリアーナの元へと駆け寄った。
「聖女様!私が必ずお護りします!」
オスカーは、リリアーナの手を取り、広間から連れ出そうとする。
「カイ……!」
リリアーナは、カイの背中を見つめていた。彼の身体から放たれる青白い光は、まるで彼女を護るための、巨大な盾のように見えた。
その時、大聖堂の天井が、突然崩れ落ちた。
「な、なんだ!?」
騎士たちが、上空を見上げる。そこには、漆黒の巨大な影が、ゆっくりと姿を現していた。
「闇の王……!」レオニダス総長が、その名を呟いた。その顔は、絶望に染まっていた。
闇の王は、その巨大な腕を広げ、大聖堂全体を闇で包み込もうとしていた。その魔力は、全てを飲み込むかのように、広間へと降り注ぐ。
「聖女様っ!急いでください!」オスカーが、リリアーナを抱きかかえ、瓦礫の雨の中を走り出した。エミリアも、後を追う。
カイは、闇の王の圧倒的な魔力に、全身から力が抜けていくのを感じた。
「……くそっ……!」
それでも、彼は諦めなかった。最後の力を振り絞り、剣を闇の王へと向けた。
その時、闇の王の背後から、魔族の幹部たちが次々と姿を現した。その中には、ルシウスの姿もあった。彼は、以前よりもさらに力を増しているように見えた。そして、その隣には、妖艶な笑みを浮かべたリリスが立っていた。
「さあ、カイ。その身を、闇に捧げなさい。そうすれば、聖女を護ることができるわ」
リリスの声が、再びカイの脳裏に響く。それは、甘く、誘惑的で、しかし、彼の心を深く蝕む毒だった。
闇の王が、その巨大な口を開き、カイへと魔力の奔流を放った。
「カイっ!」
リリアーナの悲鳴が、遠くから聞こえた。
カイは、その魔力の奔流を前に、静かに目を閉じた。
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