第二章 険しい契約結婚⑦
――掛井琉河がどうやらこの家の怪奇現象に気付いていないことを、比奈子は早い段階で悟った。
というより、多くの怪奇現象自体が比奈子の目にしか見えていないようだ。
今まで他人をこの家に入れたことがなかったから気付かなかったが、模様が変わる欄干や、誰もいないのにどこからか聞こえてくる物音など、この家の中にいれば気付かないはずのない数々の事象に対して、琉河は何の反応も示さなかった。あの男はまさにそのような異変を調査するためにここに来ているのにも拘わらずだ。
さすがにひとりでに倒れる絵画や勝手に開閉する扉などはそこに含まれないようで、視線をそちらに向けていたが、そのたびに比奈子が「建て付けが悪いのかしら。修理を頼まなきゃ」などと適当な独り言を並べ立てればそれで誤魔化されてくれた。この程度のことであれば一般の民家でも起こりうる範囲のことだからだろう。
その理由について、比奈子には心当たりはひとつしかない。
これらの怪奇現象が、この土地に通る気脈が比奈子の力に呼応して起こっていることだからだ。だから力の範囲外にいる琉河にはそれを認識できない。
(それって、もしかして私にとってはものすごく有利なことなんじゃないの?)
当初、比奈子はこれらの怪奇現象に対して、琉河がいる間だけはとにかく徹底無視を決め込むつもりでいた。『怪奇現象にも気付かない、とにかく平凡で非力で人畜無害な女』を装うためだ。しかしそれすらも必要ないということである。
こちらを煽るような怪奇現象に何も言い返したり反応したりできないのはやや腹立たしいことではあったが、自分の命が懸かっていると思えば大した問題ではない。
怪しげな道具満載の納戸や目隠しのお札のことも問い質されはしたものの、これも大した問題ではなかった。すべての責任を親戚や以前の居住者になすりつけておいて、ひたすらしらばっくれればいいだけだったからだ。幸か不幸か比奈子はこれが二度目の人生なので、この程度の嘘を平然と吐くことなど訳なかった。
ただひとつ、唯一にして最大の問題があった。
あの裏庭の梅の木、その下に束の間集まってくる妖たちの存在だ。
この五日間は、裏庭の障子戸を徹底して開けないという単純な戦法で乗り切った。掛井琉河の目下の関心が家の中にあり、さらにその家の中に納戸という最高にして最大の砦があったことが勝因だった。つまり裏庭よりも先に見るべき場所、崩すべき牙城があったことで、彼の目を逸らすことに成功したのだ。あの納戸には比奈子にとって後ろ暗いものなど何一つ存在しない。あの男の目が納戸に向いている間は、比奈子は安心して過ごしていられた。
こうしている今も妖は梅の木の下にいるかもしれない。比奈子が手を差し伸べなければ、暴走状態にあるまま街へ出てしまって、あるいは人を襲ってしまい、討伐される道を辿るかもしれない。それも一匹や二匹だけではなく。
境界線で区切られているうちは、まだいい。見えていなければ存在していないことにできる。そう、自分の頭を騙すことができる。しかし見えてしまったら、傷ついた妖を目の前にして自分の感情がどう動くのか、比奈子自身にもわからない。自分は切り捨てることができるだろうか。そのまま放っておけばいずれ殺されてしまうことがわかっている相手を。
掛井琉河は基本的にこの家の中で閉じられた戸を勝手に開けたりはしない。が、調査のために開けてくれと言われてしまったら比奈子には拒絶できない。それはそこに良からぬものを隠していると言っているようなものだ。だから比奈子は心の中で裏庭の木に向かって「お願いだから迷い込んでこないで……! あの男が出て行くまでの間だけでいいから!」とこの五日間必死に祈っていたのだった。
だが、怪奇現象に琉河が気付いていないのだとしたら。
(ひょっとして……裏庭に妖が迷い込んできても、あの男は気付かないってこと?)
それは比奈子にとっては明るすぎる展望だった。比奈子と妖との繋がりは、恐らくあの男がこの任務において一番求めている成果だ。その成果を、この家にいる限りあの男は得られないということになる。
湧き上がろうとする喜びに、しかし比奈子は慌てて蓋をした。
(油断してはだめ。あの男にほんの少しの疑いも持たれるわけにはいかないんだから)
何しろその疑いが確信に変わった瞬間、すべてが終わるのだ。
正気を失い傷ついてここに迷い込んでくる妖たちには悪いが、あの男がここにいる間は比奈子も心を鬼にして見て見ぬふりするしかない。文字通り、『妖が見えない、見たこともない一般人のふり』だ。
翌朝、障子戸のほんの僅かな隙間から、比奈子は裏庭の梅の木のほうを窺ってしまった。そこに何もいないことを確認したいがための無意識の行動だった。
梅の木の根もとには、傷ついた小さな妖が迷い込んできている。それを見つけた瞬間、比奈子は己の行動の浅はかさを悔やみ、胸中で自分自身に唾棄した。
(……ごめんなさい。今は助けてあげられない。許してちょうだい)
比奈子は心の中で妖に向かってそう呟きながら、顔では何事もないふりをした。
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