第一章 再びの生⑧


 3


 普段は感情の大きな波などほとんどない比奈子だが、人として当たり前に、たまには特段の理由がなくとも気分が揺らぐ日というものがある。訳もなく気が焦ったり、そわそわと落ち着かなかったり、あるいはうきうきと心が弾んだり。

 今日はその中で言うならば、そわそわと落ち着かない日だった。それも朝起きた瞬間からずっと、どこか追い立てられるような気分なのである。幾度も暦を確認しては、身体に不調が出そうな日でもないのにと首を捻る。

(人と関わらないから風邪なんてもらってきようがないし)

 実際、此度の人生においての比奈子は実に健康体である。

 家中を忙しなく歩き回りながらしきりに首を傾げる比奈子の視界の端で、寝室のあの額装された絵がまたぱたりとひとりでに倒れるのが見えた。今朝からこれで何度目か数える気にもならない。普段なら溜息交じりに絵を戻しに行くだけだが、今の比奈子はそれを看過できるほど穏やかな気分ではなかった。朝から募りに募った何かを横合いから面白半分に突かれたような気がしてしまって、思わず眉間に深い皺が寄る。

「……いい加減にしてちょうだい。燃やされたいの?」

 いつもよりも少々乱暴な手つきで絵を壁に立てかけると、それが合図で始まる絡繰りか何かであるかのように、台所から何かが床に落ちる物音がする。本当に何かの絡繰りなのだろうか、それが比奈子の苛立ちにまでも火を点けてしまった。そっちがその気なら、と比奈子が足音を響かせながら台所に向かう途中、例の欄干の透かし彫りがさっきまでの菖蒲模様から、こちらを嘲笑うように見下ろす兎の模様に変わっている。まるで家中が何かの予感めいたものに浮き足立ち、それが比奈子にまで伝播してきているかのようだ。

 何か、比奈子にとって良くないものがやってくるような予感。

 しかしそんな理屈などどうでもいい。壁に手のひらを叩きつけ、家に向かってぴしゃりと言い放つ。

「これ以上続けるつもりなら、私にだって考えがあるわよ。どうせ私には家ごと燃やすなんてできっこないと思ってるんでしょう? そんなことをしたら住む場所がなくなるから」

 ええそうよ、と比奈子は歯噛みする。火事など起こそうものなら、それこそ近所中から注目の的になってしまう。

 半ば地団駄を踏みながら台所に入る。床には絶対にそこにあるはずのない木製の大きな器が落ちている。両手で抱えるほどの大きさの椀にも近い形の深皿で、一人住まいの身では使うこともないから扉つきの戸棚にしまってあったはずだった。

(火がだめなら水よ。悪ふざけのお仕置きにずぶ濡れにしてやるわ!)

 比奈子はその器を拾い上げると、そこに並々と水を注いだ。かなりの重さだが、半ば興奮状態にある身体は軽々とそれを持ち上げる。

「さあ言ってごらんなさい。一体どこに冷たい水をかけられたいの!?」

 すると玄関の扉を外から叩くような音がどんどんどん、と響いてきた。比奈子はきっとそちらの方向を睨みつける。

(素直に返事をするなんていい度胸じゃないの!)

 器を抱えてまっすぐに玄関へ向かう。この喧嘩に負けるわけにはいかないのだ。恐らくこの家の怪奇現象は、比奈子が不思議な力を持っているからこそその力に呼応して起こっている。ここに住み続ける以上避けては通れないということだ。ならばなおさら、どちらがこの土地の主人なのかをわからせないといけない。何しろ今生の比奈子には、悠々自適な隠居生活をここで送り続けるという大いなる目標があるのだから。

 玄関の扉ががたがたと動いている。ひとりでに開こうとしている。

 比奈子は足を強く踏ん張り、器の水を何の躊躇いもなく、思い切りその扉に向かってぶっかけた。

 器が軽くなる感覚。宙を舞う大量の水。扉が外から開かれる。数秒の後に、ばしゃん、と水が地面に落ちる音。

 その向こうに人が立っていることに、比奈子はようやく気付いた。

「…………あ」

 思わず呆けたような声が漏れる。器を思い切り振りかぶり振り下ろした後の、両足を強く踏ん張り素晴らしく腰の入った体勢のままで。

 そこには、頭から大量の水をかぶりしとどに濡れた、白い軍服姿の男が立っていた。

「…………」

 何が起こっているのか咄嗟に把握できず、思考が空転する。頭よりも身体のほうが先に反応し、全身から冷や汗が吹き出してくる。

 とにかく何か言わなければ、と半ば脅迫されるような心地で口を開いた。

「……ど……どちら様かしら……?」

 言いながら、しかし比奈子は理解していた。

 名前など今さら訊かずとも、目の前にいるこの不吉な白装束の男が――今日このときが初対面であるこの男が、比奈子のよく知る人物であることを。

 男は濡れた髪を搔き上げながら、嘆息交じりにこちらを見やった。仇を見る憎しみに満ちた眼差し――ではなく、完全に呆れかえった目で。

「突然の訪問、失礼する。自分は内務省警保局預裏中務の者だ。掛井琉河という」

 白装束の男――掛井琉河はずぶ濡れの上着のポケットから身分証を取り出し、こちらに見せてきた。比奈子の視線はそこに書かれた名前と本人の顔とをうろうろする。

 今さら言うまでもない。前世で比奈子を斬り殺した男だ。

(な、なんで……)

 前世の時間に倣うなら、比奈子がこの男と初対面を果たすのは一年後のはずだ。

 しかし死に際に見たこの男の鬼の形相を思えば、今目の前にいる男はまるで別人である。確かに厳めしい立姿だし、職務中なのだろうから表情も引き締まっているが、前世のように比奈子を完全なる敵として認定している雰囲気は全くない。そこに加えて、比奈子のせいで頭からずぶ濡れである。春先とはいえまだ肌寒いというのに誠に哀れなことに。彼からすれば不本意だろうが非常に滑稽だ。その脱力感も相まって――比奈子は咄嗟に、正常な反応をし損なった。

「……ええと……玄関の土間の埃がすごいから、お掃除しようかしらと思って……」

 どう考えても苦しい弁解だったが、突然水をかけられた当の本人にとってはそうでもないようだった。

「そうか。忙しい時間に申し訳ない」

 ……恐らくは彼のほうも、この滑稽極まる状況にとにかく何らかの理由付けをしてひとまず納得するしかない、という状態なのだろう。

 掛井琉河のその反応に、比奈子はがばっと頭を下げた。

「ご――ごめんなさい。私ったらよく確認もせずに……!」

「いや、こちらこそ済まなかった」

 琉河は淡々とそう答えるのみだ。比奈子は頭を下げたまま胸中で舌打ちする。

(私ったら何をしているの!? よりによってこの男に頭を下げるなんて! ……というかこの男、一体何しに来たの? まさか私を殺しに? いいえ、それはあり得ない。今生での私は巧くやっているはずだもの)

 しかし何はともあれ今の状況は全面的に比奈子が悪い。

(とにかくこれ以上この男の不興を買うわけにはいかないわ。今は穏便にことを収めることだけを考えなきゃ)

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