第一章 再びの生③

「――妹の仇」

 白装束の男が振り下ろしたその刃は、比奈子の胸を袈裟斬りにした。

 為す術なく凶刃に倒れた比奈子は、そのまま息を引き取った。

 それは過去のことでもあり――同時に、

 あの夜、比奈子はあの憎しみを双眸に湛えた白装束の男に殺された。

 しかしその後、比奈子は目覚めた。あの忌まわしい夜よりも四年前、あの憎たらしい客の男の横っ面を引っ叩いて仕事をクビになった翌日の時点に、時間が巻き戻った状態で。

 布団の上で目覚めて最初は「あの世って案外地味なところなのね」と思ったが、どうやら極楽でも地獄でもない、住み慣れた自宅の寝室だということにじわじわと気付かざるを得なかった。新聞に書かれた日付も四年前、起こる出来事も四年前をそのままなぞっているようで、極めつけには敷地内に迷い込んでくる妖やひとりでに倒れる絵画などの怪奇現象の数々も、死ぬ前の人生でそうであったように、比奈子が仕事を辞めた翌日――つまり時間が巻き戻った時点からまた活発に起こり始めたのだ。

 自分はどうやら死ぬ四年前の時点に戻って、死に向かうまでの人生を再び繰り返している。

 俄には信じがたい仮説であったが、それでいて納得感のある仮説でもあった。

 なぜなら比奈子は死ぬ前にも、そういう不思議なことが身の回りに満ち溢れていた人生だったから。

 前世――あれが果たして前世と呼べるものなのかは比奈子にもわからないが――とにかく死ぬ前の比奈子は、暴走した妖を鎮静状態に戻すことのできる力を使って、罪のない妖たちを積極的に助けて回っていた。するとそれをとある組織に見咎められた。

 死を想起させる白い軍服の集団――裏中務うらなかつかさ

 彼らはこの帝都において、人間に害成す妖たちから人々を守ることを役目としていた。その彼らから比奈子は、多くの妖たちを怪しげな呪術の力で助け、匿い、あまつさえ好き勝手に操り配下として従え使役したという罪で咎められたのだ。

 前世の比奈子はやり過ぎた。自分の力を過信し、自分の行いが及ぼす影響を甘く見過ぎていた。目の前で傷つき苦しみ、本来ならば人間を襲うような気性ではないのに暴走状態に陥り人間を襲ってしまい、その結果裏中務のような者たちの手によって討伐されてしまう、そんな哀れな妖たちをどうして放っておけただろう。自分にはその妖たちを平生の状態に戻してやれる、無駄な死を回避させてやれる、そんな力が備わっているのに。

 比奈子にできるのは所詮その程度のことだ。妖たちを操ったり、ましてや配下として従えるような力など持ち合わせていない。ただ落ち着かせ、傷が癒えるまで休む場所を提供するだけ。

 しかし助けた妖たちに囲まれた自分の姿は、人間の目には確かにさぞかし悍ましく映っただろう。まして帝都を守るために日夜剣を振り、その妖たちと戦っている者たちの目には。

 妖を引き連れて夜な夜な町を徘徊する姿がよほど目に付いたのか、『夜闇の妖姫』などというとんでもない異名まで付けられてしまった。まるきり凶悪事件の犯罪者に付けられる暗号名だ。まるで遠い英国で三十年近く前に起こったという、切り裂き何某事件の犯人さながらではないか。

(失礼しちゃう。それに夜だけじゃなくて昼間にだって妖を助けて回ってたわよ)

 身支度を調えながら、比奈子は胸中で零した。

 できるだけ地味な着物を着て、できるだけ薄く化粧を施す。元の顔立ちのせいか、きちんと着飾ると少々派手になりすぎてしまうから、はできるだけ控え目になるように心掛けている。誰の印象にも残らないように、誰にも見咎められないように。

 二度目の人生を繰り返し始めてそろそろ三年が経つ。このまま行けば一年後、自分はまたあの双眸に憎しみを湛えた白装束の男に殺される。

 あの悪夢の夜が決して再来しないように、あの恐ろしい死の運命が繰り返されないように、今の比奈子はひたすら世を忍んで暮らしているのだ。そのために前世のように傷ついた妖を助けるために町を徘徊したりなどせずに、この家に迷い込んでくる妖だけをこっそり助け、過度に干渉せずいつまでも家にも留め置かず、回復したらすぐに逃がすに留めているというわけである。

 ――あと一年。それさえ乗り切れば。

 鏡台の前に正座したまま、比奈子は鏡の中の自分を見る。完璧だ。これ以上ないほど町に溶け込める姿をしている。

(前世での私は、今ぐらいの時期は病みついて臥せりがちになっていた頃ね)

 妖を助けるために力を使いすぎたせいなのか、それとも心労が原因だったのかはわからないが、この時期辺りから比奈子は体調をよく崩していた。あの白装束の男に斬り殺される間際など、約一ヶ月分の記憶がほぼないぐらいだ。頭は常に朦朧としていたし、視界は常に眩暈のような症状で揺れていた。死の直前まで自力で立って町を徘徊していたことが我ながら信じられないほど、他人に斬り殺されるまでもなくいつ衰弱死してもおかしくない状態だったと思う。

 病みついて間もない頃はそれでも医者にかかった。だが原因不明だと言われた。病状が悪化するに従い、どんどん自分の不調や身体のことがどうでもよくなっていった。

 投げやりだったのとは違う。死を望んでいたわけでも勿論ない。

 ただ、眠りに落ちる直前のようなあの感覚が――心地好かった。誰にも邪魔されることなくいつまでもここに浸かっていたい、何なら頭の先まで沈んでしまいたいとさえ思っていたのだ。

 あの頃のことは比奈子にもうまく説明できない。「どうかしていた」という表現が一番しっくりくる。

 その病が、今は片鱗さえもない。

(大丈夫。うまくやれているわ)

 鏡の中の自分に向かって胸中で呟く。こうして自分を鼓舞しておかないと、不意にあの凶刃の切っ先を思い出して弱気になってしまいそうになる。病は気からと言うし、死の運命に引っ張られてしまうような事態はどんな些末なことでも事前に避けなければならない。

 あと一年。それさえ乗り切れば、何者にも脅かされない安穏とした余生が待っている。

 古ぼけた風呂敷と使い込んだがま口を持ち、立ち上がる。どこからどう見ても『夜闇の妖姫』とはほど遠い女が出来上がっている。

 比奈子は強く頷き、買い出しのために家を出た。

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