この世のどこかの話

小栄

完結? 始まらないのに?

「やあ少年。何してるんだい?」

 男性は橋の上。約数メートル先の少年と思わしき人物に話しかけた。暗がりでもそこそこわかる。白いパーカーと紺のジーパン。青色のスニーカー。

「下の川を見ているんだ。とても、音がいい。」

「見ているんだか聞いているんだか。最近の子はずいぶん感受性が豊かだね。そんな雑多な音に価値を見出せるなんて。お兄さん理解できねえわ。

 いや褒めてるんだぜ。いいじゃん。安上がりな趣味で。」

「お兄さんは、何やってんの?」

「深夜徘徊。」

 少年は橋の上。約数メートル先の男性に問い返した。じっと少年の出方をうかがっている男性と違って、少年は見向きもしない。フードを深くかぶっていて、男性の姿を目に映そうすればわざわざ頭を上に向けなければいけないし、何よりあまり興味が持てないらしいから。そういう労力を、少年は惜しむタイプ。

 男性は下の川を見てみた。何か面白いものでもあるのかと、あまり期待はせずに下を見てみた。少年の視線を追ってみた。

 だが、夜という時間帯もあり、水底どころか揺らぐ水面すらも見えない。こんな何もない場所なのだから、月明りの一つや二つサービス精神でつけてくれれば良いものを、天はそれを許さないらしい。

 男性は何が楽しくて少年が橋の下を見ているのか理解できない。

 少年も、正直大した目的があって見ていたわけではなかった。男性が少年に話しかけた理由と同じ。ただの暇つぶし。気分である。

 今ここに、意義など一つもない。意味などない。ましてや大義など、無理に説こうとしてしまえば笑ってしまう。あまりに無理過ぎて。感覚的には、「ヒーローになりたい!」と叫ぶ子供に対して、枯れ切った大人が乾いた笑いをこぼすのと同じ。「無理に決まってんだろ。」と。嘲笑ではない。多分。

「少年よお、俺も別に大それた人間じゃないからよ、別にこんな時間にうろつくななんて言わねえよ? でもさ、せめてこんな鬱屈とした遊びは辞めとけよ。やるなら景気よく未成年飲酒でもやっとけ。倫理観はともかく、気分はよくなるぜ。」

「別に遊び目的でうろついてなんていないさ。それに、きっと飲酒よりもこっちのほうが楽しい。なんだか見れば見るほど、吸い込まれるようで。足元が浮いてきてさ。

 飛べるような気がするんだぜ。飲酒よりも効く。」

「危ねえなほんと。ラリってんのか。陰気臭いぞ、なあ。」

「お兄さん。今日ここ来るの初めてだよね? 俺、ここで人に会ったことなんてないよ。結構な頻度で来てるはずなんだけど。」

 お兄さんと呼ばれたことが、少しうれしい。

「結構な頻度でそれしてんのかよ。ほんっと、つまんねえ人生してんのな。」

「はは。お兄さんはなんだか楽しそうだよね。テンション高い。なに、飲んでんの? 俺、飲んだくれは嫌いなんだけど。」

「残念ながら素面だ。」

 男性は軽いステップで、それこそ酔った勢いの千鳥足のように、ふらふらと少年に近づいた。なんとなく。

 この男「人生全てイージーモード!」みたいな余裕そうな顔をしているが、実際は明日の朝ご飯すらも怪しい無一文である。本当のところ、こんな陰気で危ない少年よりも自暴自棄。適当な生き方をした自分を呪い、なまじ中途半端に頭がいいからどうにも取り返しがつかないのだと気付いて無知のまま無駄な努力をすることすらも許されない。そして、それによってできてしまった暇に何もできなくて耐えられない。「これが本当の詰みかあ、」なんて呑気に考えながら深夜徘徊をしていたところなのだ。明日には世界の邪魔にならないように消えようかなあ、なんて考えながら。

 少し危ない少年に「お前も同じだろ?」と肩を組む。

「なあ少年。このまま飛び込んでしまおうか。」

 耳元で聞こえた男性の声は、少年が聞いたことないほど低い、バリトンの声。

 男性は少年よりも体格が一回り大きい。組まれた肩の重みを感じて、少年は自分が思っていたよりも下を向いていたことに気づく。首が凝り固まり、血の流れが悪い。痺れた首は、なおのこと他方を見ることを許さなかった。

 少年は初めて、深くかぶったフードを退けて、男性の顔を見た。といっても、ここは街灯すらも乏しい暗がりの橋。正しく顔を認識できたか怪しかった。だが、少年は思った。目線のすぐそこにあった男性の目を見て思った。「ああ、これがかの有名なか。」と思った。

 覗かずとも、深淵がわざわざ覗きに来たと思った。

 男性の目は、下の川よりも暗闇である。見れば見るほど深い。吸い込まれそうな暗闇。ハイライトなんて、入るわけがない。

 けれど、顔を上げた少年の目にはかろうじてハイライトが入った。ほんの少し。それは少年が目を輝かせたからではない。残念ながら、非常に残念ながら。

 ブロロロロロロロロロロロロロロロロロ。

 一つの車が道路を走る。少年の目に映った光はただの反射。

 生ぬるい夏の空気を総入れ替えするように、涼しい風が二人の間を通った。

 少年の前髪が揺れ、男性のよれよれTシャツの首元が揺れる。

「なあ少年。もう一度聞くぜ。ここで何やってんだ?」

「明日の憂鬱に肩を潰されそうになりながら、その重みのまま下に落ちてしまおうかと、考えていたところなんだ。」

 二人は下の川を見る。

 車の光がなくなり、再度の暗闇の中では、やはり川など見えない。これでは下がコンクリートでも綿飴でも雪でも温かな布団でもわからない。別に下がなんだっていいのだ。結局のところ、二人とも前も上も、後ろすらも向けないから下を見ているだけなのだ。横? 横を見ると憂鬱が加速するだろうが。自分と比べてしまって。

「早く帰って、ゆっくり寝ろよ。あったかくしてな。んで、学校行けよ。少年。

 母さんと父さん。心配してるだろ。」

「なんで不登校って決め打ちしてるのさ。」

「この様で真面目に登校している奴なら、俺はいよいよ一人で川に飛び込むね。」

「安心しろよ。行ってねえ。」

「そりゃそうだろ。」

 カラカラとカラ元気に男性は笑う。乾いた笑顔だ。

「お兄さんは何やってんの?」

「明日に絶望して深夜徘徊。」

 二人そろって、下の川を眺める。

 ここは別に、田舎というわけではない。むしろ政令指定都市の真横と言っていいほどの都会である。本来は明るいのだ。すぐそこ。歩けば眠らぬ街がある。けれど夜が来て、少し脇に逸れればここまで暗い。時間帯もあるのだろう。歩いている人はおろか、車だってさっきの一台以外通る気配がない。通ったとして、きっとこんな不審な二人を見ると「変なものを見た。」と踵を返すだろう。それくらいはする価値のある時間帯である。普通に危ない。

 何もかも危なく、恐ろしく感じる時間帯。実際、危なくて恐ろしい時間帯。

「お前は絶望するのには早いぜ。」

「絶望に早いも遅いもないだろ。」

「何に絶望するってんだよ。そりゃ不安不満はあるだろうぜ。けど、生きていけるだろ。帰って寝ろよ。それだけで明日のご飯が食えるはずだろ。」

 少年はうんざりした気分だった。

 そんなこと、今日初対面の不審な男に言われずともわかっている。生きていくことには不安はない。不満も、まあ許容範囲だ。だがそうじゃない。そうじゃないだろう。生きていくだけなら簡単だ。感情を抜きにして。最善の手を取り続ければきっとそこそこいい暮らしはしていけるだろう。

 けれど、今ここで。男性の言葉にはいそうですかと首を縦に振れば、少年は自分の苦悩、もどかしさを否定したことになる。それは断固として嫌だった。

 人が避けては通れない。論理ではない。感情、意地というものである。

 少年は自分の言葉で、それを表すことはできないけれど。間違いなくあるのだ。

「なんだっていいよ。俺、初めて会ったあなたに納得と理解をしてもらおうと思っていないから。できると思っていないから。」

「なんだなんだ。早々に白旗宣言かよ。」

「勝ち負けじゃないだろ。」

「お前、頭いいだろ。」

「なんだっていい。価値観なんてそれぞれだから。

 俺もあなたも、なんだっていいだろ。」

 男性の顔から、笑みが消えた。

 それは余裕を取り繕う余裕すらなくなったからではなかった。ただの暇つぶしつもりで絡んだ少年が、ただのモラトリアムに耐えられなくなった少年ではなくて、全てにおいて妥協と諦めを覚えてしまったつまらない人間に成り下がっていると気付いたからである。

 多様性という言葉に胡坐をかいて、人それぞれという言葉を盾に。理解する努力と理解してもらう努力を、肯定してもらう工程を。蔑ろにしているつまらない人間。

 でも、男性はそれを言葉にしなかった。

 分かっていたからである。少年が言った通り、お互いに何も知らないから。その不干渉という怠惰が、少年を守っていたかもしれないからである。だから言わなかった。言ってしまったら、それこそ理解も納得も諦めた全否定になってしまうから。

 だが、とりあえず小難しいことは置いといて。

 つまらない少年だなあ。もっとおしゃべりしたほうが楽しいじゃないか。

 男性は思う。そうだろ? おしゃべりしようぜ。

「俺さ、今無一文なんだよね。簡単に言うとホームレス。六円しか持ってない。」

「リアルだね。そうはなりたくないなあ。」

「なあ、お前はどう?」

「所持金が六円。以上にインパクトのある現状報告を持ち合わせていないけれど。」

「別にインパクトを求めてねえよ。現状報告なんて、普通であるほどいいんだ。」

「報告できる現状すらないんだよ。言わせんなこんなこと。」

「あーあ。悲しいかな。現代の子供は何もないのか。」

「なんもないんだぜ。それこそ、無一文であればまだ、俺はきっと笑えたのにな。」

「やめとけよ。一番いいのはいい暮らししながら笑うことだろうが。」

 少年は改めて考える。今、一体全体俺は何をしているんだ。この男の言う通り、家に帰れば温かい布団が待っている。きっと冷蔵庫を覗けばご飯だってあるだろう。学校にだって行くだけなら簡単のはずではないか。

「なんでなんだろうな。」

 川底を覗く。

 布団よりもご飯よりも、冷たく苦しい川底に沈んでしまいたい衝動に駆られる。

「人生、そんなもんだぜ少年。」

 男は煙草を持ち出して、まさかの少年の顔の横で吸い出した。

「おいふざけんな。臭いだろうが。無一文じゃなかったのかよ。離れろおっさん。」

 さっきまでおとなしく肩を組まれていた少年は、やっと抵抗を始めた。

「なけなしの五百八十六円を使って、五百八十円の煙草を買ったんだ。

 テリアのブラックメンソール。お前も吸う?

 今気分がいいから一本くらいならやるぜ。」

「いらねえよ。肺に色は塗りたくねえ。」

 男の頭の中にはなにもない。少年の頭の中には受動喫煙、健康被害の文字がぐるぐると暴れていた。この少年、案外健康志向である。

 そんな少年が、たばこの銘柄なんてわかるはずがない。少年でなくとも、まともな未成年であれば、そもそも知る由もないのだ。けれど、少年の頭にはしっかりと刻まれた。少し甘く、すっきりとした煙の匂いは、テリアのブラックメンソール。

「五百円あったならご飯買えよ。」

「飯食っても明日の不安は消えねえだろ。」

「空腹は満たせるぜ。」

「煙草があればどちらも解決する。酒でもよかったが、俺ってば童顔だから酒買えないんだよ。身分証明書くらいは持っておくべきだな。」

「黙れ。十分老け顔じゃねえか。現に煙草は買えてんじゃねえか。お前煙草にも年確必要なの知らねえのかよ。」

「お前が黙れ。誰が老け顔だ。ジョークに決まってんだろ流せよ。」

「こうはなりたくねえよ。俺。」

「俺だってなりたくてなったんじゃねえよ。もう、誰か金くれよ。腹減った。」

「だからご飯買えよ。煙草じゃなくて。」

「知ってるか? 煙草の税ってさ、大抵旧国鉄の借金返済に使われてるらしい。」

「は?」

「俺も詳しいこと知らねんだけど。昔鉄道を通した時に出た負債に、煙草税を使ってるらしい。知ってる? 現学生よ。」

「知らん。」

「俺も最近知ってさ、煙草を買う時に思い出して。ふと思い至ったわけよ。」

 男性は忘れられない。コンビニの冷蔵コーナーの前に立って、たかだか数百円の小鉢サイズのポテサラを買うことにすら躊躇する自分への嫌悪。眩暈がした。視界が、足元が、そんなわけがないのに揺らいだ気がした。

 だから諦めた。

「明日生きてるか怪しい俺が飯を買うよりも、煙草買ったほうが役に立つんじゃねえかなって。」

「……微々たるもんだろ。そんなもん。役に立ちたいとか、あんた。存外殊勝な人間じゃねえの。意外だわ。」

「殊勝じゃねえ生き方してきたから、最後くらい、な終わり方にしようとしたんだぜ。」

 少年は初めて気づく。この男、案外マジなのか? 

 さっきまでの無一文という言葉を、信じていなかったわけじゃないけれど。そこまで本気にしていたわけじゃなかった。もっと楽観的な男で、ぎりぎりな生き方をむしろ楽しんでいる奴なんだと。思っていた。

 そうでもないらしい。

 少年は別に、自分が男性よりも深刻なのだと傲慢な考え方をしていたわけではない。ただ、考え方の問題で、自分より男性のほうが物事を軽く見ている、くらいには思っていた。そうか。そうでもないんだ。

 現状を憂いているのは両者同じ。

「俺、帰るよ。お兄さん。なんか、どうでもよくなっちゃった。」

 肩に人肌を感じて。今もなお嗅覚を支配するテリアの匂いに酔いながら。

 自分よりもやばそうな人を直に見て、なんだか何もかもがあほらしくなった。

 何も現状は変わっていないが、自分よりも変えられなさそうな人を見て、自分が小さく思えてしまった。

 その苦悩も不安も、間違いなく少年の中にあったはずなのに。

 なぜだ。なぜなんだろうか。人の感情って、なんでこうも揺らぎやすいのかなあ。ちゃんと苦しんだのだ。少年は、ちゃんと苦悩を味わった。なのに。だというのに。もう、そんなこともなかったような気がしてる。

 これは虚無感だ。あまりに自分がいないことへの。

「そう。じゃあ帰れ。もう会うこともないわな。」

 男性はやっと少年の肩を離した。

 離しざるをえなかった。男性は少年の苦悩を軽んじる気は毛頭ないが、自分より幾分か取り返しが効くことを知っている。だから離した。流石に自分と同じ不幸に沈ませたいと思うほど、プライドを捨ててはいない。

 でも、思ってしまう。

 なあんだ。結局こうなるのか。結局、俺もこいつも生きていくことになる。

 そううんざりした気分になりながら、横に立つ少年を見た。

「もう来るなよ。ここで二度と会わないことを願うぜ。」

「働きなよ。お兄さん。」

「正論は求めてねえよ。」

「ほしいのは同情?」

「したらぶっ殺すぞ。」

 二人はそのまま別れた。

 男性も少年も、どこに向かったのかすら定かではない。

 いつかのどこかのだれかの話である。

 これ以上、前日談も後日談もない。ちょっとした、二人の会話。

 世の中こんなのばっかである。

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