3-2.冬の始まり


  四



 英語の小テストが終わって愛衣に平和が訪れる。寒さで銀杏の葉が枯れ落ちる並木道を、愛衣は秋穂と歩いている。小テストも終わって何事もなく帰れる日常を愛衣は噛み締めていた。

「くあ〜っ、テスト疲れた〜。でも手応えあったよ、毎日付き合ってくれてありがとね、秋穂」

「どういたしまして。でも私も復習がいっぱいできて良かったから、気にしないで」

「秋穂先生〜ほんとやさしいんだから〜」

 愛衣は両手を揃えて秋穂を拝む。秋穂は照れながら「ほんとに気にしないで」と言う。気にしないわけにはいかない、いつも教師に怒られるギリギリの点数を取っている愛衣にとっては、舞い降りた勉強の天使なのだ。拝み倒したくもなる。

 ふと、愛衣は勉強期間は必死で気付かなかったが今更になって気になった話題を秋穂に振る。

「そういえばさ、毎日帰り遅くなっちゃって大丈夫だった? 家族に何か言われたりとか、しなかった?」

 真面目な秋穂が、たまに遊んで帰りが遅くなることはあっても一週間毎日のように遅くなることは今までなかっただろうと思い至ったのだ。そんな愛衣の心配をよそに、秋穂は当たり前みたいに言う。

「私、一人暮らしだから、何も言われないよ」

「えっ、秋穂一人暮らしなの?」

 高校を卒業したら一人暮らし、というイメージがあった愛衣には、高校から一人暮らしをしている人がいるとは思わず、大きな声を出して驚いてしまった。秋穂はいつも通り控えめに笑って続ける。

「うん、今年の春から一人暮らしだよ」

「すごい、もう一人暮らししてるんだあ」

「すごくはないよ、ただ一人で暮らしてるだけなんだから」

 生活費はもらっているし、と俯きながら秋穂は言うが、生まれてこの方家族から離れて暮らしたことのない愛衣にとっては偉業としか思えなかった。別世界のように感じてしまった愛衣は「すごい、意味わからん、すごい」と繰り返し言っていた。それを聞いた秋穂は自嘲気味に言った。

「家族と仲良しじゃなかったから、一人暮らしの方が楽だったの」

「え、そうなの? 喧嘩する秋穂とか想像できないけど」

 大声を上げて言葉で相手を押さえつけるような、あるいは殴る蹴るの戦いをする秋穂が、愛衣には全く想像できなかった。

「ふふ、喧嘩とかはしなかったかな。でも、何もなかったの。喧嘩をすることも、話すことも。そういう家だった」

 遠くを見上げながら秋穂が言った。毎日騒がしく笑い合って、時には喧嘩もして、そういう自分の家族とは正反対だなと愛衣は思って、自分にその気持ちを理解することはできないけど、自分がその場にいたら、きっと。

「寂しいね」

「……うん、たぶん、寂しかった」

 少しの沈黙が二人の間に流れる。沈黙を破ったのは秋穂で、彼女は愛衣の方を見て慌ただしく言った。

「あっ、でもね、今は寂しくないよ、愛衣と美月と雪がいるから」

「秋穂〜!」

 なんて健気で可愛い子だろう、と愛衣は思って秋穂をぎゅっと抱きしめる。初めの頃はそういうスキンシップに赤面しながら体を硬直させていた秋穂も、もう慣れてきたのか「もう」と笑って言ってくれるのが、愛衣はとても嬉しかった。

「……私ね、家族とはほとんど話すことなかったし、学校でお友だちができたこともなかったし、周りの人に疎まれてきたし、きっとこれからもそういう生活がずっと続くんだろうなって思ってたの。私にはきっと、誰かと関わる資格なんてないんだって」

 寂しそうな顔をして秋穂が言う。すかさず愛衣は反論した。

「そんなわけないじゃん! 資格とか、そういうのが必要なわけない!」

 泣きそうな声で、目に涙を溜めて、愛衣は反論を続ける。

「あたし、秋穂にそんなこと思わせた人たちが許せない。秋穂はあたしのこと考えてくれるし、周りのこともちゃんと見えるし、言ってることだってやさしいし、きっと思ってることだってやさしい、そういう子なのに、そんな考えをさせるような周りに腹が立つ」

「愛衣……」

 ほとんど泣いている愛衣の顔を見て、秋穂は困ったような、けれども嬉しそうな顔をする。

「私、愛衣がそう思ってくれることがすごくうれしい。今までの私が報われたような気がするし、今日からの私はきっと少し軽い気持ちでいられるから」

 秋穂はカバンからティッシュを取り出して愛衣の涙を拭う。ぐすぐすしながら大人しく拭われる愛衣に、秋穂は続けて言う。

「愛衣とお友だちになれてね、私も誰かと関わるのに資格なんていらないんだって思えるようになったの。資格とかそういうことじゃなくって、関わる勇気がなかっただけなんだって。だからきっと、私が望んでがんばれば、これからそういう関わりも増やしていけるんだって、そう思ったの」

 愛衣の涙を拭ったティッシュをくるくると丸めてカバンのポケットへとしまいこみながら秋穂が言う。

「だからね愛衣、私、愛衣とお友だちになれて幸せなの。本当に、私とお友だちになってくれてありがとう」

 その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも可愛らしくて、輝いていた。そんな笑顔を見れたことが、そんな笑顔を自分に向けてくれたことがこんなにも嬉しいのに、どうしてか愛衣は胸の奥底がチクリとした。お友だちになってくれてありがとう、という一文にチクリと反応するのはどうしてなのだろう。自分はこんなに嬉しいと感じているのに。わからない。わからないから、愛衣はその痛みを心の奥底へと押し込んだ。

「こっちこそ、秋穂と友だちになれてほんとに幸せ! ありがとう!」

 がばっと秋穂を抱きしめる。「わっ」と驚いた声が聞こえたが気にしない。愛衣は思う存分秋穂を抱きしめた。満足いくまで抱きしめて離れると、秋穂は困った顔で笑っていて、愛衣はいらずらっ子のように笑って返した。

 その後も他愛もない話をしながら家路を歩く。お揃いになったストレートの髪が揺れ動く帰り道、とてもとても綺麗な宝石がまた一つ万華鏡の中にしまわれた。



 五



 愛衣は家に着いて、家族へただいまと挨拶をしつつ着替えをするのに自室へと向かう。自室に入って制服を脱ぎ、それをハンガーに掛けながら思う。自分は両親や姉から愛情を注がれていること、だから今でも家族と暮らしているし、できればこれからも暮らしていきたいと思っていること、自分には友人がいつもいて、学校でも笑いながら過ごしていたこと、今まで学校で疎まれるようなことを少なくとも直接受けたことはないこと、そしてそれらと反対にいる人と関わってこなかったこと。私は、何も考えずに、ただ幸せでいたこと。

 それは悪いことじゃない、と秋穂はきっと言う。でも自分は、秋穂にあの呪いをかけた人たちと何が違うのだろうかと思う。見て見ぬふりを故意にしたことはないけれど、それは気付かないフリをしていただけなのではないのかと。そんなことがなくとも、それでも反対側の人たちから見れば、私も呪いをかけた側の人間なのではないかと。

 こんなことを秋穂に言っても困らせてしまうと思って、帰り道では考えないようにしていたことがどんどん湧いて出てくる。それらの考えを振り払おうと頭を振る。

 秋穂は今、幸せだって言ってくれてる。私も秋穂といられて幸せを感じている。私は秋穂とこの先も笑い合っていたいし、私にできるのならそうすることでその呪いも軽くしていきたい。

 よし、そうしよう。小難しいことを考えるのは自分にはできない、だからせめて目の前の、幸せにしたい人の呪いを軽くしていくことをしていこう。愛衣は心の中で大きく頷いた。

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