2-2.秋の終わり


  二



 秋の空模様は変わりやすい。天気予報を見てこなかった自分が悪いのはわかっているが、朝はあんなに晴れていたのに今はこんな土砂降りだなんてずるい、と愛衣は校舎入り口で唸っていた。うわーと叫んだら雲が割れて晴れないかな、なんて考えるが、愛衣は超人でも超能力者でもないため叫んでも雲が割れることはないし、いくら唸っても晴れる気配はなかった。友人に傘を借りても良かったが、今日は皆用事があるとかで、いつもの放課後の集まりはなかった。

 仕方がない。愛衣は覚悟を決めて、濡れないようにカバンを抱えて雨の中を飛び出した。あっという間に肩に水が染み込んでくる。冷たい。これじゃあ風邪を引いてしまうかもしれない。長距離走も短距離走も全くできないが、それでも走るしかない、と前を向いた時に傘をさした見慣れた背中が見える。黒い髪を低い位置で一つに束ねている姿。カバンには黒い猫が揺れている。

「どーん」

「わっ」

 愛衣は秋穂に斜め後ろから軽くぶつかった。なんの予兆もなくぶつかってこられた秋穂の体は黒猫と共に揺れる。

「愛衣」

「えへへ、傘忘れちゃってさ〜。よかったら入れて欲しいなあ、なんて」

「いいよ、大きな傘じゃないけど、それでもよかったら」

「ありがとう〜! 秋穂大好き!」

 愛衣は秋穂をぎゅっと抱きしめる。だって救世主様に最大級の感謝を示したかったから。

「ち、近いよ、愛衣」

「なに〜? いいじゃん別に」

 秋穂はメガネの向こうの目をきょろきょろと泳がせて赤面する。それが可愛らしくてもっとぎゅうっと抱きしめる。

「い、いいけどよくないよ」

「どっちなのそれは~。あ、でもそういえばあたしびしゃびしゃだったね、ごめん、秋穂濡れてない?」

「大丈夫、表面は濡れちゃったかもしれないけど、中まで染みてきてないから」

「よかった~」

 愛衣は安堵しなら肩が触れる距離に横並びになる。傘から少し左肩がはみ出した。

「秋穂もうちょっと真ん中に入りなよ、あたし濡れてもいいからさ」

「だめだよ、風邪ひいちゃうかもしれないんだから」

「でも秋穂の傘だから、秋穂が優先」

 触れていた肩を離す。秋穂が真ん中に来れるようにと愛衣は自分が傘からはみ出すくらいに避ける。二人の間に距離が生まれた。秋穂が生まれた隙間に入って、それから愛衣の手首を軽く握ってぐいと真ん中に引っ張った。

「二人で真ん中にいれば、二人とも風邪を引いたって軽く済むでしょ?」

 引っ張られて軽く肩がぶつかる。二人の間の距離は、また肩が触れる距離に戻る。

「ひゅ〜、秋穂ってばカッコイ〜」

 雨の道を、二人で肩を並べて歩く。傘からはみ出た左肩には水が染みてきて冷たいはずなのに、不思議と全く気にならなかった。

「ふふ、誰かさんの影響でちょっと格好良くなれてるかもね」

「え、誰? あたしの知らないやつ? 彼氏? 妬いちゃうかも」

「さあ、誰でしょうね」

 くすくすと笑う秋穂。秋穂は最近、ちょっとずついたずらっ子みたいになってきている。きっとこっちが本当の秋穂で、それを自分には見せてくれているのだと思うと、愛衣は嬉しくなって心がざわついた。

「え〜、彼氏だったら紹介してよ。うちの子はお前に渡さん! ってやりたい」

「愛衣お父さん、厳しそうだね」

「そうだよ〜、あたしのおメガネは厳しいんだから」

 愛衣はメガネを右手でくいと上げる動作をする。それを見た秋穂が「メガネ、片手で上げたら歪んじゃうよ」と笑った。

 土砂降りの音も、冷たく濡れた体も、どちらも気にならない。二人で他愛もない話で盛り上がる帰り道。それがとても楽しくて嬉しくて、家に帰ってもいい気分のまま、愛衣は体を温めるのを忘れた。


「っくしゅ」

 愛衣は軽くくしゃみをして、それから鼻をかむ。自室のゴミ箱はもう自分が鼻をかんだティッシュでいっぱいだった。熱は出ていないし、くしゃみと鼻水以外の症状はないものの、愛衣は風邪を引いてしまった。昨日体を温めなかったからだ、と後悔しながら鼻をかむ。こうなると心配なのは秋穂のこと。自分が傘に入れてもらったせいで秋穂も風邪を引いているのではないか。愛衣はスマートフォンを手に取って連絡アプリを開く。

『かぜひいた そっち大丈夫?』

 スマートフォンを置いてまた鼻をかむ。部屋に備えておいたティッシュがもうすぐ空になりそうだ。新しい箱をリビングに取りに行かなくては。立ちあがろうとした時に、スマートフォンが鳴る。愛衣はスマートフォンを手に取ってアプリを開いた。

『私も風邪引いちゃった でもそんなにひどくないから大丈夫だよ』

 案の定、秋穂にも風邪を引かせてしまったようで、傘に入れてもらわなければよかったと少し後悔をした。あの時、傘に入れてもらわなければ風邪を引いたのは自分だけで済んだのだ。そう思うと愛衣は申し訳なさでいっぱいになった。

『あたしが傘に入れてもらったせいだ ほんとごめん』

『大丈夫だよ』

 愛衣は鼻をかむ。秋穂も自分と同じく鼻をかんでいるだろうか。鼻をかみすぎて赤くなった鼻を思って考える。どうか秋穂の症状が軽くありますように、と願っていたら、スマートフォンがまた鳴る。

『風邪を半分こできたから、それでいいよ』

『秋穂〜〜〜! いい子すぎる 大好き』

『ありがとう』

『でもほんとごめんね もう傘忘れないようにするからさ』

『うん でもまた忘れちゃったら言ってね いつでも半分こしよう』

 こんなにいい子がこの世にいていいのか。愛衣は澄んだおいしい水を飲んだような気持ちになった。秋穂と友人になれて本当に良かった。秋穂と会わせてくれたいちごソーダに感謝だな、と愛衣は動画サイトを開いて毎日のように聞いているいちごソーダの曲をかける。


 今日貴方と出会った

 灰色だった私の世界が

 鮮やかに色付いた


 灰色だったわけじゃないけど、秋穂と出会って新しい色が混ざってもっと素敵な日々になった。

 

 私は貴方に恋してる

 世界が美しいのは貴方のおかげ

 貴方に出会えた私は幸せ


 恋をしているわけじゃない。でも知らなかった美しい世界を知れたのは秋穂のおかげ。


 いちごソーダみたいに

 甘くて爽やかで満たされる


 甘くて爽やかな気持ち。心がそれで満たされている。

 私は本当に、今、幸せだ。



  三



 休みが明けて、また一週間が始まる。愛衣はいつも通り、決して早いとは言えない時間に教室に入って自分の席へと向かいながら美月と雪に「おはよう」と挨拶をする。もう一人、挨拶をしようと目を向けると、いつもはいるはずの秋穂の姿がない。もしかしてあの後風邪が悪化してしまったのだろうか愛衣は、と愛衣は焦る。愛衣はひとまず自分の席へ座り、スマートフォンを手に取って連絡アプリで秋穂にメッセージを送る。

『もしかして熱とか出た?』

 いつもならすぐに既読が付くのに、数分待っても既読にならない。どうしよう、高熱が出ていてメッセージを返せないのかもしれない。愛衣は血の気が引く感じがした。

 あと数分で担任の先生が来る時間になる。まだ付き合いは一ヶ月と少しくらいだが、秋穂は一度だって遅刻してきたことはない。それどころか、ギリギリの時間になることさえなかったのに。

 まだ既読の付かない連絡アプリと秋穂の席を交互に見ていたら、見慣れない姿が秋穂の席に座った。肩甲骨を覆うくらいのストレートの黒髪。カバンには黒い猫のぬいぐるみのキーホルダー。黒猫がついたカバンということは、秋穂なのだろうか。時間がなくて今日は髪を束ねてこられなかったのか。愛衣は挨拶をしようと立ち上がったが、それと同時に教師がやってきたので仕方なくまた椅子に座る。


 秋穂のことが気になって何も頭に入ってこなかったホームルームが終わり、愛衣は秋穂の元へと足を運ぶ。

「秋穂」

 横から秋穂の顔を覗き込むように軽く屈む。秋穂は何故か照れているように愛衣とは反対の方に目をやる。何故だろうと愛衣は考え、よく見るといつもと印象の違う秋穂の顔に気が付く。秋穂の肌がいつもより整っているし、頬の血色も良い。目元もなんだか印象的だ。いつもよりももっと可愛い気がする。

「もしかして秋穂、メイクしてる?」

「……やっぱり、変かな?」

 自信がないのか、秋穂の瞳が揺らぎ、俯きがちになる。

「ちがうちがう、いつもよりすっごくかわいくてびっくりしちゃっただけ!」

「ほ、本当?」

 自信なさげに揺れていた瞳がしっかりと愛衣を見て、輝きを取り戻す。

「ほんとほんと!メイクもかわいいし、髪もこっちの方がかわいいよ〜!」

 うんうん、と腕を組みながら愛衣が頷く。今の秋穂はいつもよりも本当に可愛らしいし、なによりも愛衣の知る秋穂という可愛らしい人物にとても似合っていると思った。

「いつものもかわいいけどさ、こっちの方があたしは好きだよ」

「……ありがとう」

 恥ずかしそうに笑う秋穂は、いつもと違って見えて愛衣はドキリとした。いつもよりも秋穂が輝いて見える。それはきっと化粧の効果だけではなく、秋穂の内面から感じさせるものだろうと愛衣は思い、とてもうれしく感じた。


 お昼休みになって、ここまでで愛衣は気付いたことがある。それは、今日は秋穂に声を掛ける人が出てきたということ。主に男の子が声を掛けては「小湊さん、今日イメージ違うね」「髪、そっちの方がいいと思う」「今日はすごくかわいいよ」と口々に言っていた。

 なにそれ、と愛衣は今日初めて話しかけている人たちに思った。秋穂は今までだって可愛かったしいい子だったのに、今日メイクしていていつもよりも可愛く見えるからって話しかけるとか最低じゃないか、と。自分は秋穂が可愛いことをずっと知っていたのに。

 愛衣の心にもやもやとした感情が沸く。こんな感情はよくない、抑えなくてはと愛衣は呼吸を整える。もやもやとした気持ちを抑え込むことに成功し、秋穂をお昼の食事に誘おうとそちらを見ると、今度は女の子たちが秋穂を囲んで話をしていた。

「ありゃ、今日は囚われのお姫様だねえ」

「愛衣王子様、いいの?」

「……よくない」

 愛衣の顔が不機嫌そうに歪む。今までは秋穂に見向きもしなかったくせに、今だって秋穂のことを何も知ろうとしないでただ可愛くなったねって言って、それだけのくせに。抑え込んだもやもやがまた首をもたげる。

「秋穂はずっと可愛い子だったのに」

 でも、それは。

「秋穂のこと、何にも知らないのに」

 自分と何が違うのだろうか。何も知らないのにいちごソーダが好きだというだけで声を掛けた自分と、見た目が変って声を掛けた彼ら彼女らと、違うことはなんだろうか。もやもやの中に、色の違うもう一つのもやもやを見つけてしまった。愛衣は一瞬考える。でも、だけど。

「……納得いかない」

 王子様は、囚われのお姫様に会うために動いた。


「それにしてもさあ、ほんとにイメージ変わったね、秋穂」

 美月がふわふわの卵焼きを頬張りながら言う。

「髪を下ろして前髪分けて、ちょっとメイクしただけなのにね〜、がらっと変わったね〜」

 口元に指を当てながら雪も続く。秋穂は「そんなことは」と照れて目を泳がせていた。

「それで、王子様はなんでそんなに怒ってるわけ?」

 そんな中で一人だけ、愛衣はむすくれていた。食事もそこそこに、頬を膨らませながら肘をついた手に顎を乗せている。

「……だって秋穂は前からかわいかったのに、イメージが変わったからってぞろぞろ話しかけにいくの、納得がいかない」

「でも話しかけやすいきっかけになったんじゃないかな〜」

「それは、そうかもしれないけど……でも納得いかない!」

 愛衣は頬を膨らませてぷいとそっぽを向いてぶすくれている。ぶすくれている愛衣を見て秋穂が少し困ったような表情をした。

「私、こんなことしない方がよかった?」

「ちがうよ! 秋穂はがんばってかわいくなったんだから、秋穂が悪いわけない!」

「悪いのは嫉妬心がどうにもできない王子様だねえ」

「嫉妬じゃない! 納得いかないだけだって!」

「それが嫉妬心から来るものなんじゃないの~」

 愛衣は何も言えなくなり、ぐうと唸る。これは嫉妬心なのだろうか。自分でもわからない。愛衣が唸りながら考え込んでいると、秋穂がふと笑ってそっと切り出した。

「あのね、私、皆と一緒にいて思ったの。もっと皆に近付きたいって。それでメイクをしてみたの」

 三人は驚いて目を丸くしながら秋穂を見つめる。三人に同時に見つめられた秋穂は少し恥ずかしさで言いよどんだが、そのまま続ける。

「私に光をくれた皆に、私をここに連れ出してくれた愛衣に、少しでも近付きたかったの。もちろん見た目だけじゃ意味がないことはわかってるんだけど、それでも私、憧れた愛衣に……皆に近付きたかった」

 その言葉に、愛衣は驚くと同時に心のもやが晴れる気持がした。自分たちに、自分に近付きたくてメイクをした。皆に見てもらいたかったわけではなく、ただただ自分たちに近付きたくて。それであの恥ずかしがり屋の秋穂がメイクをがんばって、髪型も変えてきたのだ。あまりの健気さに心臓がぎゅっとなる。

 愛衣は自分たちに見せたかったのだと聞いて、嫉妬心が晴れたがまた別の感情が心に宿る。心がきゅっとして、愛おしい気持ち。これはなんの気持ちだろうか。愛衣にはまだ名前がわからない感情だった。

「なんかこう、むず痒くなるねえ」

「私たちが秋穂を変えたのか〜」

 美月は恥ずかしそうに目線を外にやっていて、雪は感慨深そうに頷いている。

「ね、秋穂」

 愛衣はいつものいたずらっぽい笑顔に、三割増くらいゆるゆると頬が緩んだ表情で秋穂に話しかける。

「あたしたちが秋穂をもっとかわいくしたげる」

「えっ」

「メイクも、髪型も、あとコンタクトにしたりとかさ、いっぱいやろうよ」

 自分に憧れてくれた可愛い秋穂。それならばもっと秋穂を可愛くしたい。もっともっと、秋穂が内面を出せるように、見た目にも自信を持たせてたい。

「え……と、いいの? それじゃあ、その、よろしくお願いします」

「まかせてよ!」

 愛衣にとってきらきら光る宝物のような秋穂を、もっときらきらにしたい。してみせる。

「それじゃあまずはさ、今日の放課後に皆でメイク道具買いに行こ!」

 先ほどの薄暗いもやもやが嘘みたいに、きらきらした気持ちでいっぱいになった。

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