第5話 嫉妬と二重人格
村上自身、学生時代から、
「俺は嫉妬深い」
と思っていた。
学生時代は、普段から、
「ダサい」
と言われていて、
「あいつに彼女がいないというのは、当たり前」
と言われていた。
自分でも、
「ダサい」
という感覚はあったが、まわりがいうほどのことはないとも思っていて、
「どうしてそこまで言われなければいけないのか?」
ということを考えると、
「俺って、学生時代から、嫌われ者だったんだろうな」
と、いまさらながらに感じていた。
だから、
「ダサい」
というものが、
「人から嫌われる」
というオーラのようなものを醸しだしていると思っていたのだ。
だが、それでも、
「徹底的に嫌われる」
ということはなかった。
もちろん、中には、
「顔を見るのも嫌だ」
と、まるで、
「生理的に受け付けない」
というほどの考えの人もいたようだった。
しかし、自分の中では、
「そんな人もいてもいい」
というくらいに、余裕のようなものがあった。
その理由は、
「俺のことを嫌っている連中もいるが、慕ってくれている人も一定数いるのだ」
と感じていたからだった。
慕ってくれる連中が確かにいて、その連中と輪を形成すれば、
「自分がいつの間にか、その輪の中心にいる」
ということになるからだった。
だから、
「俺のことを慕ってくれている連中とコミュニティを形成すればいいんだ」
ということで、問題は解決するのだ。
そういう意味で、
「敵も多いが味方も多い」
それでいいと思っていた。
しかし、その敵の中に、奥さんが入ってしまった。
今までの経験からいけば、
「女房は、俺のことを生理的に嫌なんだろうな」
と思った。
「俺の方も、女房に対して、飽きたという感覚を持っているのだから、これも、生理的に合わないと考えれば、二人は同じ感覚ではないだろうか?」
と思えるのだった。
それであれば、
「離婚は簡単に行く」
と思っていた。
だから、逆に、慌てて離婚することもない、つまりは、
「こちらから言い出すと、こっちが不利だ」
ということで、話は、
「相手から」
と思っていた。
案の定、離婚を切り出してきた奥さんだったが、村上は、
「待ってました」
とばかりであった。
ただ、村上の中には、
「不倫というのは、奥さんが家にいてくれて、その間であるから、刺激もあるし、楽しいのだ」
と思っていた。
「そもそも、不倫の楽しさって何なんだ?」
と村上は思った。
「奥さんでは味わえない快楽を味わえる?」
それとも、
「刺激や興奮がほしい?」
それとも、
「男としての快感を得たい?」
といろいろ考えるが、結論として、
「それも正解で、どれも間違いだ」
という、まるで、
「禅問答」
のような話になるのだった。
ただ、この考えは、あくまでも、
「奥さんと一緒にいる時に、不倫相手のことを考えた時」
というものであった。
逆に、
「不倫相手と一緒にいる時に、奥さんを考える自分」
という、
「もう一人の自分」
というのもいるのだ。
しかも、二人は、その気持ちを
「たすきに掛ける」
という形でしか、表すことができない。
それ以外の自分が、表に出ているのかどうか分からないが、自分の意識の中にはないのだ。
それを考えた時、
「そっか、その場合のもう一人の自分」
というのは、
「夢を見ている」
という時の自分なのではないだろうか?
だから、
「目が覚めるにしたがって、見た夢というのは忘れていくのだ」
ということになるのだろう。
それは、
「覚えていないのではなく、忘れてしまう」
という本能ということになるのだろう。
「忘れるということは作為があって忘れる」
ということで、
「覚えていない」
ということとは、反対から見たものといえるかも知れないが、
「実は、もう一人の自分というものが、影響している」
ということになるのかも知れない。
実際に、
「現実社会」
ということで、夢のような忘れ方をしない状態であれば、その時は、
「まるで、たすきに掛けたような見え方になる」
というのは、実は、子供の頃から感じていたことだった。
しかし、それは、
「もう一人の自分」
というその存在を意識しているものであり、逆に意識するからこそ、
「片方が表に出ている時は、片方のことが分からない」
ということは分かっていた。
子供の時は分からなかったが、大人になると、
「だからこそ、見えていないもう一人の自分を見ようと、意識的に感じることで、たすきに掛けたように見えるんだ」
と感じたのだ。
これは、
「お互いの意識の中で、その存在を意識はできるが、決して、見ることはできない」
と分かっていたことだ。
それがなぜなのかというと、
「昔から、楽器が苦手だった」
と思っていた。
特に、
「ギターやピアノなど、できるわけはない」
と思っていたのだが、その理由は、
「右手と左手で、まったく違った動きをすることができない」
と考えたからだ。
しかし、人間というものは、
「左右で別々のことができる」
というのは、
「自分を含めてある程度の人ができるだろう」
と感じていた。
それは、
「本能によるものだから」
ということで、
「人間が持って生まれた能力だ」
と考えると、
「自分にもあるはずだ」
と思うだろう、
しかし、いくらやっても、
「自分が楽器の演奏しているところ」
というものを想像ができなかったのだ。
つまりは、
「俺にはできない」
ということである。
逆にいえば、
「もう一人の自分の存在を意識したとしても、考えることはできない」
というのが、自分というものだということであった。
逆に他の人は、
「左右で別のことができる」
ということは、それは、
「無意識にである」
と思えば、
「左右で襷を架ける感情ができるようになると、それを、二重人格性からきているのではないか?」
ということから、
「ドッペルゲンガー」
というものを意識させるということになるだろう。
世の中において、
「なるべくなら、ドッペルゲンガーを意識させたくない」
という、一種の、
「神の力」
というのが存在しているとすれば、
「二重人格性」
というものを、本人には悟らせたくないと考えるのではないだろうか?
それが、自分以外の人、つまりは、自分にかかわっている、
「奥さん」
であったり、
「不倫相手」
ということになる。
それでも、うまくやってこれたのは、
「それぞれの相手に、もう一人の自分を感じさせながら、いい相性の自分がついている」
ということからなのかも知れない。
ただ、
「不倫相手」
としての自分は、実にうまく付き合っていけていたが、
「奥さん」
とかかわっている自分は、どうも、相性が合っていないとしか思えないのだ。
「飽きた」
という感覚が、
「相性があっていない」
ということと同じなのかと言われると、ハッキリとした答えがでるわけではないが、
「自分が意識できないのだから、どうすることもできない」
ということであった。
だから、別れを切り出して、奥さんも、同意したことでの離婚ということになったのだが、実際には、
「うまく離婚できた」
ということはないようだった。
どこで、奥さんの結界が壊れたのか分からない。
奥さんの中のもう一人の自分が、出てきたのかも知れない。
そのもう一人の自分というのは、
「猜疑心が強く、嫉妬深い」
というもので、しかも、
「思い立ったり、開き直る」
ということになると、
「自分がすべて正しい」
と思い込むという性格だったのかも知れない。
そうなると、
「どんな過激なことでもしてしまう」
というもので、それを抑えるはずの自分が、開き直った自分に、すでに何もできなくなってしまっているのだろう。
それを考えると、
「俺を殺そうとするくらいのことは、普通にあるんだろうな」
と思えても仕方がないだろう。
だから、村上は、殺される数日前に夢を見ていた。
それは、
「誰かに殺される夢であり、相手が女だ」
ということは分かっていた。
しかも、
「夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」
ということが分かっていたはずなのに、その時の夢は、
「決して忘れていく」
というものではなかったのだ。
それを考えると、
「俺って、もうすぐ死ぬんじゃないか?」
と思ったとしても、無理もないことだった。
その時、
「ドッペルゲンガーでも見たのかな?」
と感じた。
「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来に死んでしまう」
ということは知っていた。
しかも、
「自分の中に、もう一人の自分がいる」
ということは、意識していたではないか。
それが、
「ドッペルゲンガー」
というものであることは間違いない。
しかし、ドッペルゲンガーというものを、
「ジキル博士とハイド氏」
のようなものだとも思っていなかったのだ。
つまりは、
「ドッペルゲンガーというのは、あくまでも、
「もう一人の自分」
ということで、
「肉体もまったくの別人だ」
ということなのだと思っていた。
そうじゃないと、
「もう一人の自分というドッペルゲンガーを見ると死んでしまう」
ということが言われるわけはないと思うのだった。
「もう一人の別人を見るからこそ、死んでしまう」
という都市伝説が生まれるわけで、
「原因があって、結果がある」
そのプロセスは別だといっても、結果に信憑性があれば、原因にも、信憑性が感じられる。
そうでないと、
「都市伝説」
ということであっても、
「問題とはならないからではないか?」
と考えられるからである。
「自分が死んでしまう」
ということは。よく考えれば、
「それを立証はできない」
ということだ。
なぜなら、
「人間死んでしまえば、それを生きている人間に話すことも、説得させることもできないからだ」
ということになるからだ、
「死なないと、その死の理由が分からない」
ということだから、その死というものについて誰にも話せないということになる、。
もっといえば、
「死後の世界を見れるのは、死んだ人間だけで、死んだ人間が戻ることもできないのだから、死後の世界というのは、想像上のものでしかない」
ということになるわけだ。
しかし、ここで一つ考えられることとして、
「死んだ人間に、もう一人の自分がいるとすれば、その記憶の中から、死んだ人間を呼び戻すことができるのではないか?」
ということであるが、
この発想は、
「一人の肉体の中に、二つの人格が存在しているとして、一つの人格が死んだとしても、片方が生きていれば、肉体も生き抜くことができる」
という考えだ。
これは、
「肉体を滅ぼせば、二人とも死んでしまう」
という、
「ジキル博士とハイド氏」
の発想となるのであろうが、この発想に対して、村上は、
「どちらも正解で、どちらも間違いだ」
ということになるのだろうと考えるのであった。
村上は、奥さんの本性として、
「一番ふさわしい」
と感じるのが、
「嫉妬深い」
と感じるところであった。
というのも、
「元々、結婚前までは、嫉妬深い」
などという考えはなかったのである。
「結婚してから、特に感じるようになった」
ということで、
「まったくなかった」
というと語弊があるが、結婚して一番目立ったということで、
「結婚当初あったのか、なかったのか?」
ということで余計に、結婚後に意識するようになったのだ。
「嫉妬深い」
ということを、村上はむしろ、
「悪いことだ」
とは思っていなかった。
「それだけ、自分のことを好きだと思ってくれているんだからな」
と感じていたのだ。
だが、自分の中で、
「飽きた」
と思わせる感覚に陥らせた原因の一つとして、この、
「嫉妬深さ」
というところに原因があるのではないかと感じたのであった。
「結婚した時と、別れる時で、そんなに気持ち的には変わっていないんだけどな」
と思っていたが、そこが、
「お互いを襷に見るようになった」
ということで、別れる時の自分の目線は、
「結婚した時とは違う、もう一人の自分」
ということではなかっただろうか?
それが、二重人格性ということで、村上は自分としては、
「正反対の性格である」
という風に思っていた。
だが、
「それは違う」
と感じるようになったのだが、それは、
「二重人格を、躁鬱症のように、
「繰り返し、 訪れるもの」
と考えていると、そこに見えるものは、
「多重になった輪が描かれる」
ということだと思っていたのだ。
同じところをぐるぐる描いているので、それだけ、
「ずっと濃くなってくるということだ」
と感じていたのだ。
しかし、実際に離婚が近づいてくると、
「輪を描く」
ということは当たり前のことのように感じるのだが、それを横から見ると、まるで、
「螺旋階段のようになっている」
ということで、それを、
「負のスパイラルだ」
と考えるようになった。
それが本当に、
「負なのかどうか?」
ということは、ハッキリと分からないと思うのであった。
そんな
「嫉妬」
と、
「二重人格」
というものは、それぞれに、
「たすきに見せるというものの、反対側の作用なのではないか?」
と感じるようになったのだ。
村上は、
「殺された」
ということであるが、
「本当に死んだのだろうか?」
と思う人がいた。
それが誰なのか?
ということであるが、実は、それが、村上にとっての、
「もう一人の自分」
だということを、村上自身も分かっているのであろうか?
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