第4話 寿命とドッペルゲンガ―

 これは、

「自分と同じ人間が、同じ次元の同じ時間に存在している」

 ということであり、それを見てしまうと、

「近い将来、死んでしまう」

 と言われているというものである。

 それは、都市伝説のようにも思われるが、かなりの、

「太古の昔」

 から言われていることのようであった。

 この場合も、その理由についていろいろと言われてはいるが、ハッキリとしたことは分かっていない。

 だが、これも、

「寿命と、パラレルワールド」

 ということを考えると、ありえない発想でもない。

 特に、

「死期が近づいていることが分かる」

 とも言われているようで、それこそ、

「死期についてハッキリと悟る」

 ということで、

「実際に死んでしまう」

 ということであれば、

「それも結果として当たり前のことだ」

 といえるのではないだろうか?

 死期が分かったことで、

「俺は間もなく死んでしまうんだ」

 と、自己暗示に掛けることが、結局、

「死」

 という。

「最終的に絶対に逃れられないことを意識するようになった」

 ということなのだと考えれば、

「死期を悟ったことで、死を迎えた」

 ということは、

「至極当然のことではないか?」

 と言われたとしても、

「それは当たり前のことだろう」

 といえるに違いない。

 それらのことを考えてみれば、

「ドッペルゲンガー」

 というものが、太古から言われてはきているが、その原因がいまだに分かっていないというのは、それだけ、

「人類のテーマ」

 ということでは、ずっと言われてきたことであり、解明されたその時、

「ひょっとすると、人間というもの全体の寿命が尽きる」

 ということになるのではないか?

 と考えられるのであった。

「寿命」

 というものが、いかに大きな問題をはらんでいるか?

 ということも、

「フレーム問題」

 であったりが絡んでくるのだろう。

「自殺」

 などのように、

「自ら自分を葬った」

 という考えは、宗教的には、

「自分で自分を葬る」

 ということになるので、

「殺人と同じだ」

 ということになるだろう。

 これは、どの宗教でも同じかも知れない。

 宗教を信じていない人でも、この理屈は理解できるだろう。

 しかし、それでも、

「自分の命を断たなければいけない」

 というところまで追い詰められたのも事実であり、それを、

「殺人と同じだ」

 といってしまうのは、少しひどい気もする。

 確かに、

「人間の命に係わることができるのは、神様だけだ」

 ということで、

「生殺与奪の権利」

 というものを持つことができるというのは、

「神様だけだ」

 ということになるだろう。

 しかし、本当にそうだろうか?

 そもそも、神様が、人間や社会を作ったのだというのであれば、

「人間が、自分で自分を葬るほどに追い詰められる社会というものを、どうして作ったのか?」

 ということである。

 聖書などによれば、

「人間を作った神様の思った通りにならないから」

 ということで、

「この世を一度滅ぼす」

 という発想からの、

「ノアの箱舟」

 という話があった。

 これは、まるで、

「自分が造ったおもちゃが、うまくできなかったから。もう一度分解して作り直す」

 という発想と同じである。

 確かに、

「人間や社会の創造主が神様だ」

 ということであれば、滅ぼされる方は、文句が言えない」

 ということになるのかも知れない。

 しかし、実際には、そこまで神様の、

「絶対君主」

 というのが、この世ということではない。

 それぞれに国家が存在し、下手をすれば、その国家の方針が、

「生殺与奪の権利」

 ということになるともいえるからだ。

 この世の中において、

「自殺することは、殺人と同じだ」

 という戒律は、あてはまるのだろうか?

 もし、

「死期が分かる」

 ということであれば、それは、

「その時に自分が死にたくなる」

 という時期が分かるということなのかも知れない。

 そういうことであれば、

「自殺というのは、自分の運命であり、実際には自分から命を断つ」

 ということになるのだが、実際には、

「神様によって決められた運命で、寿命と変わりない」

 という考えもできるのではないだろうか?

 ということになれば、

「事故であったり、殺人事件」

 ということであっても、

「結局は、決められた運命」

 ということで、

「寿命における大往生」

 というものと同じなのではないか?

 ということである。

 だから、

「殺されたり、自殺をしたり、不慮の事故」

 ということであっても、

「運命ということに変わりはない」

 ということであり、

「すべてを寿命といってもいいのでhないだろうか?」

 と考えられる。

 そう考えると、諦めがつくのかも知れない。

 考えてみれば、

「戦国の世」

 という時代であったり、

「大日本帝国時代」

 であったりする時、

「いつ死んでもおかしくない」

 という覚悟を皆が持っていたではないか。

 特に、大東亜戦争などでは、

「特攻隊」

 などというものは、

「天皇陛下のために死寝る」

 ということで、まるで、

「男子の誉れ」

 とまで言われていただろう。

「玉砕」

 というのも、その一つかも知れないが、この場合は、少し違っている。

 というのは、

「戦陣君」

 というものがあり、

「生きて虜囚の辱めを受けず」

 という言葉があり、

「捕虜になるくらいであれば、潔く死を選ぶ」

 ということであった。

 実際には、

「捕虜になると、拷問に掛けられたりして、機密事項を漏らされても困る」

 ということからの、一種の、

「欺瞞」

 ということであろうが、しかし、時代背景から考えると、

「この欺瞞も、当たり前のこととして言われる」

 ということになるのだ。

 だから、

「玉砕」

 というのは、ある意味、

「考え方としては間違っていない」

 ともいえるかも知れない。

 本当に捕虜になれば、実際に国際法上で決められているはずの、

「ハーグ陸戦協定」

 のような、

「捕虜に対しての対応」

 というものが守られることはないだろう。

 それだけ、

「戦時というのは、通常の精神状態ではいられない」

 ということになるのであろう。

 それを考えると、

「人間の寿命で、自殺に近い玉砕」

 というのも、

「ある種の無理もないこと」

 といってもいいかも知れない。

 さらに、戦国時代に起こった事件の一つとして、

「細川ガラシャの自害」

 という問題がある。

 こちらは、

「キリスト教信者」

 である、細川ガラシャが、

「このままでは、人質にされて、夫の足かせになる」

 ということを嫌った彼女が、自害を覚悟した。

 しかし、

「自害は許されない」

 というキリスト教において、彼女の考えは、

「配下の兵に自分を殺させる」

 ということであった。

 確かに、殺し合いの時代ということもあり、

「配下の兵」

 というのもたくさん殺してきたということで、

「自分一人が加わっても」

 ということも考えられなくもないが、

 少なくとも、

「自分を殺す」

 ということを他人に委ねるわけで、自殺が人殺しと同じだということであれば、その責を、配下に負わせ、

「自分を殺させるということに使う」

 ということである。

 実際に考えれば許されるかどうか、

「何が正しいというのか?」

 難しいとことであった。

 殺されたと「思われる男は、

「村上誠二」

 と言った。

 彼は、殺されるだけの理由があった。

 彼は、40歳を過ぎていて、一人者だ。一度は結婚したのだが、奥さんと別れることになったのだが、バツイチなど珍しくも何ともなく、離婚することになった理由は、

「村上の不倫」

 だった。

 村上は、不倫をしていたが、それは、

「決まった相手との不倫」

 というわけではなかった。

 不倫相手を愛しているというわけでもなく、

「セフレ」

 といってもいいだろう。

 相手のオンナも、同じように、村上を愛しているというわけではなく、

「お互いに気持ち良ければそれでいい」

 というだけのことだった。

 特に村上は、

「奥さんに飽きちゃった」

 という感覚で、セックスに関しては、正直、

「もう、いいや」

 と思っていた。

 結婚した当初から、その気持ちが強く、その分、他のオンナを見ると、自分でも興奮するのが分かったのである。

 相手のオンナも、

「旦那に飽きちゃってね。私は刺激がほしいの」

 という人ばかりだった。

 しかも、都合よく、

「そういう男にはそういう女が」

 そして、

「そういう女には、そういう男がくっついてくる」

 ということになるのだった。

 だから、お互いに、

「知り合うべくして知り合ったんだ」

 と思うわけで、そうなると、あとは、お互いの肉体を貪るだけだった。

 執着があるのは、相手の身体だけだということで、あとくされはない。それこそ、

「割り切りの関係」

 ということだった。

 お互いに、平等な関係ではあったが、いつも、

「こづかいだ」

 といって、男が女に、若干のお金を渡していた。

 女の方も、

「私は、お金がほしくて一緒にいるわけじゃないのよ」

 とばかりに言って、断ったが、

「いいや、いいんだ。俺がこの方が気が楽だと思っているだけなんでな」

 というのだった。

 女の方としても、

「相手が気が楽だといっているのであれば、それでいい」 

 と思うようになったのだ。

 その気持ちが伝わったのか。だから、お互いに、さらに他の異性とセックスをしても、嫉妬もしないし、お互いに干渉をしないという関係になれたのだった。

 だから、

「離婚しようがこのままいようが、どっちでもいい」

 と思っていた。

 ただ、

「慰謝料は勘弁してほしい」

 と思っていたが、やはり、請求されることになった。

 しかし、実際には、奥さんも浮気をしていて、それを掴んだ男性側が、逆に、告訴したのだ。

 結局、お互いに痛み分けのような形になり、最初から決まっていたかのように、普通に離婚することになった。

 もちろん、慰謝料はなしということである。

 本当は女としては、

「私の浮気も、最初にあなたがしたから、その寂しさを紛らわすために」

 という気持ちからで、女房も、浮気相手を愛しているわけではなかったが、理由が、

「ただ、寂しいから」

 ということであった。

 これは、村上のように、

「お互いに割り切った付き合い」

 というわけではなく、もっと率直な感情で、本当に、

「身体が寂しいから」

 という理由だった。

 だから、余計に、

「私がこんな風になったのは、旦那のせい」

 と勝手に思っている。

 しかし、村上の方とすれば、

「彼女も自分と同じ穴のムジナ」

 ということで、

「あいつも、俺に飽きたから、浮気をしたんだ」

 としか思っていない。

 だから、まるで。

「喧嘩両成敗」

 といってもよく、

「浮気をしたその罪に変わりはない」

 と思っていた。

 同じように、離婚が成立したわけだが、その気持ちには、かなりの開きがあった。

 旦那とすれば、

「これでせいせいした」

 というくらいに思っていたが、奥さんの方からすれば、

「離婚までしなくてもよかった」

 と、後悔の念が襲ってくる。

 そう思うと、

「旦那も同じころを思っているかも知れない」

 と、未練がましいことを考えてしまうのだった。

 それが、

「男と女の違い」

 というものであろう。

 というか、

「お互いに、離れようとする方はたんぱくだが、諦めきれないと、未練がましくなる」

 というのは、本来なら当たり前だが、それが顕著になるのは、

「男と女の関係」

 しかも、

「夫婦関係」

 というものではないだろうか?

 しかも、それが、

「ストーカー行為」

 というものに発展すると、話は厄介になってくる。

 しかし、結婚していた夫婦が別れたからといって、どちらかがストーカー行為に至るというのは、珍しいことではないだろうか?

 それだけ、

「執着心が強い」

 ということになるのだろうか。

 それを思えば、村上夫妻というのは、

「執着の激しい奥さんをもらった」

 ということが、悲劇だったといってもいいだろう。

 ただ、それだけではなく、

「夫が飽きっぽかった」

 というのも、その原因だ。

 何といっても、そもそも、飽きっぽかったということが、すべての原因ではないだろうか?

 飽きっぽいということが、許されるかどうかであるが、相手も同じ気持ちであれば、それこそ、

「一世を風靡した言葉」

 ということで、

「成田離婚」

 という

「スピード離婚」

 に発展したということになるだろう。

 だが、結局離婚などできるわけもなく、夫の方が、

「飽きが着ているけど、しょうがない」

 と最初は、

「セックスがなくても、新婚気分を味わっていればいいんだ」

 と思っていたが、それができず、

「我慢できない」

 ということから、一度、

「ワンナイト」

 ということでの不倫をしたが、それに嵌ってしまったということであった。

 最初は、

「一夜限り」

 ということでもよかったが、

「身体だけじゃないな」

 と思うようになると、

「適当な期間付き合える女性」

 というのを求めるようになった。

 そうなると、不思議なことに、同じようなことを思っている女が寄ってくるというもので、お互いに、

「出会うべくして出会った」

 という、運命的なことを感じてしまうと、お互いに、

「別れられなくなった」

 しかも、それは、

「肉体関係だけ」

 というわけではなく、本当に愛情が湧いてきたような気がしていた。

 しかも、それは、

「お互いの配偶者に対して感じているものではない」

 ということで、

「まさか、不倫が本気になってきているのでは?」

 と思ったが、それも違うことは分かっているつもりだった。

「どちらかというと、今の奥さんに対してと同じ気持ち」

 ということであった。

「それなら、別に不倫相手と長く付き合うこともないはずなのに」

 と思うのだが、その時、村上が考えたのが、

「自分の中にもう一人いて、一人は女房と、もう一人は不倫相手と、似たような気持ちで付き合っているだけなんだ」

 と思えば、

「1+1」

 ということを考え、それが、

「完璧な1になる」

 と考えると、

「この関係が、俺には一番似合っているのかも知れない」

 と思うのだった。

 そして、不倫を始めた奥さんも、

「同じことなんだろう」

 と勝手に思い込むようになった。

 そこには、自分なりの確信的な思いがあり、それは、

「女房も、二重人格なところがある」

 ということが分かっていたからだ。

「あいつも、不倫相手に、俺には見せない顔を見せているに違いない」

 と思うと、

「俺も、女房といる時と、不倫相手では、まったく違う顔をしているんだろうな」

 と感じるのだ。

 奥さんというものの、

「もう一人の存在」

 というものは分かっているが、

「もう一人のその顔というものを見てみたい」

 と感じるようになったのは、

「ひょっとすると、嫉妬といえるものなのではないだろうか?」


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