03 ナブリオーネの絵図面
「これはこれは……クラリー家の姫君からではないか」
その日、ナブリオーネ・ディ・ブオナパルテは婚約者デジレ・クラリーからの手紙を受け取った。
デジレ・クラリー。
マルセイユの裕福な商家の娘で、コルシカの貧乏貴族の家に生まれたナブリオーネからすると、まさに「姫君」だった。
その「姫君」──デジレは、やがてナブリオーネことナポレオンが、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚するために、その婚約を解消されてしまうが、この時点では彼女の姉・ジュリーがジュゼッペ・ディ・ブオナパルテ(ジョゼフ・ボナパルト、ナブリオーネの兄)と結婚しており、姉妹でブオナパルテと縁づいていた。
デジレは手紙で語る。
――ナブリオ(ナブリオーネの愛称)、ジュゼッペは、いつも絵画のことばかり。だからつまらなかった。わたしも、ジュリーも。
デジレの手紙はそういう書き出しから始まっていた。
ジュゼッペは絵画を愛好しており、かつてナブリオーネに、所蔵するベラスケスの絵画の模写を見せてくれたことがある。
――でも貴方の手紙に書かれていたとおり、ジュゼッペの好きな、ベラスケスの『セビーリャの水売り』に出てくる子どもが、『卵を調理する老女』にも出て来るって話をしたの。
そうするとジュゼッペは食いついてきた。
そうだそうだと言って、わざわざ愛蔵している模写を持ち出して来てくれた。
そこへデジレが、ナブリオーネの手紙に書いてあったことを口にした。
――『東方三博士の礼拝』に、ちょっと大きくなったこの子が出てるって言ってあげたわ。そしたら驚いて……。
ジュゼッペは、確かにそうだと叫び、凄いぞと小躍りした。
その上機嫌になったジュゼッペの耳に――デジレはそっとささやいた。
「ねえジュゼッペ、実はこのことを教えてくれたのは、ナブリオなの。それで――」
と。
*
実はこの時ジュゼッペは、国民公会からトゥーロンへの派遣された議員のひとり、アントワーヌ・クリストフ・サリセティの秘書を務めていた。
ジュゼッペはデジレを介して伝えられたナブリオーネの作戦を、サリセティに話した。
サリセティは軍事のことはわからないと答えた。
だが、専門家の意見を聞くことにした。
すなわち、デュゴミエである。
ジャック・フランソワ・デュゴミエ。
十六歳の時から従軍し、七年戦争、アメリカ独立戦争と戦い、この時点で五十五歳。つい最近でもニースとピエモンテでオーストリア軍と戦い、勝利した男であり、当時の革命軍で、たたき上げの軍人として最も有名な男である。
サリセティの諮問に対して、デュゴミエの回答はただの一語だった。
「
これにより、カルトーの
そのあと、ドッペという元医師が指揮官となったが、マルグレーブ砦攻撃に失敗し、すぐに辞任した。
かくして、デュゴミエ本人がトゥーロン攻撃軍を率いることになった。
これを知ったナブリオーネは、ひとりごちた。
「ディエゴ・ベラスケスはひとりの少年をいろいろな風に描けることを、画に長けた王に見せ、宮廷画家になった。カルトーのように、錠前に長けた王にではなく。で、このナブリオーネ・ディ・ブオナパルテは、あの要塞トゥーロン攻略の絵図面を描けることを、戦いの名人に見せることにしたのさ」
ナブリオーネの策はあたった。
デュゴミエは着任してすぐにナブリオーネを呼んだ。
そしてただひとこと、「勝負をつけろ」と言って、ル・ケールの丘──マルグレーブ砦の攻略を命じた。
*
こうして一七九三年十二月十八日夜、ナブリオーネはマルグレーブ砦を襲撃した。
ナブリオーネは腿を負傷したと伝えられているが、それでも朝にはマルグレーブ砦を奪った。
「やんぬるかな」
トゥーロン防衛の任にあたっていたサミュエル・フッド提督は形勢逆転を悟り、シドニー・スミス代将に
こうしてトゥーロンの戦いはフランス革命軍の勝利に終わった。
ナブリオーネ・ディ・ブオナパルテはその功績により、すでに大佐に昇進していたが、さらに准将になった。
*
「……なぜだ」
ナブリオーネはトゥーロンのあと、イタリア方面軍の砲兵司令官になった。
ところがそこで、
「くそ……」
ナブリオーネはパリの安宿の、隣に売春婦の寝るベッドから立ち上がった。
今何時だ。
何月何日だ。
床に脱ぎ捨てた軍服をがさがさとしながら、どこかへ行った、懐中時計を探す。
この時、ナブリオーネは名乗りをフランス風に変え、いわゆる
「まだ機会はあるはずだ」
思わず口をついて出た言葉。
それは、あの時の――トゥーロンの時のように、自分の描く絵図面――作戦を欲する者があらわれる機会があるはずだ、ということである。
「そして今度は、もう、ただの画家でいることはしない」
誰かの支持を得ようと――王の支持を得ようとしたから、こうなったのだ。
無能な味方に踊らされず、有能な味方に使われるのではなく、使う立場にならねば。
「そうとも、このナポレオン・ボナパルトこそが、上に立つ。そうでなければならない」
確信めいた予感。
それがナポレオンにはあった。
その時、三角帽の影から、きらりと輝くものが見えた。
「あった」
懐中時計を手に取る。
月や日にちもわかる優れものだ。
ただ、フランス革命暦に対応しておらず、そこだけは不便だった。
「何日か……それはわからないか」
起きたばかりで頭が回らない。
だが、何月かはわかった。
「
そうつぶやいた時、扉をノックする音が響いた。
ナポレオンは面倒くさそうな表情をしたが、軍服を手早く身につけた。
銃をかまえ、扉へ近づく。
……この瞬間、ナポレオンは知らない。
扉の向こうにいるのは、ポール・バラスの使いであることを。
ポール・バラス。
このあと起こる、
このあとナポレオンはバラスの副官となるが、やがてはそのバラスを打倒し、みずからが第一統領となることを、まだ知らなかった。
【了】
画(え)と王と ~トゥーロン攻囲戦、ある内幕~ 四谷軒 @gyro
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