02 ベラスケスの画(え)

 ところがカルトー将軍は、ナブリオーネ・ディ・ブオナパルテ少佐の提案に、あまり乗り気にはならなかった。


「兵と、そして弾が足りんよ、ブオナパルテ少佐」


「ですが」


「いやいや、やりたくねえってわけじゃねえ。本当に、無いんだ。このイーゼルとか、そこらのも、砲弾代わりに使えって言ってあるからなぁ」


 ナブリオーネは顔をしかめた。

 大砲を何だと思っていやがる。

 そういう顔である。

 その時ふと、カルトーの周りに落ちている(置かれている、というには、あまりに粗雑すぎた)画のひとつに目が止まった。

 その画はカルトーの模写らしいが、画の中では老女が卵を調理しているようで、鍋の上に卵を開けていた。老女の手前の卓には大蒜にんにくやら玉葱やらが乱雑に置かれている。

 老女の向こうには、少年がその手にメロンと、そして葡萄酒を抱えている。

 どうやら、老女の料理の出来を待っているようだ。


「ベラスケスさ」


 いつの間にやらドローイングを再開したカルトーが言った。

 ディエゴ・ベラスケス。

 17世紀スペインの宮廷画家として知られる。

 代表作としては、「バッカスの勝利」、「ブレダの開城」、「女官たちラス・メニーナス」があるが、ナブリオーネにとっては、さらに、印象深い一作があった。


「このベラスケスの『卵を調理する老女』の画の端にいる少年、この少年は、別の画にもいませんでしたか?」


「よく知っているな」


 カルトーは絵筆を止めた。

 すると、ごそごそと転がっている画の中から、一枚の画を拾い上げた。

 その画には、前の方には壮年の男が片手に素焼きの壺を、片手にはなみなみと水の注がれたグラスを持っていた。

 そのグラスを凝視する、黒い服の少年がいる。

 その少年こそが「卵を調理する老女」に出てくる少年と瓜二つ、というか同一人物であろう。


「『セビーリャの水売り』さ」


 『卵を調理する老女』とならび、ベラスケスの初期の――まだ宮廷画家として出仕する前の名作として知られる画だ。

 ナブリオーネは、その画に見覚えがあった。

 なぜなら、兄のジュゼッペ(ジョゼフ・ボナパルトのこと)がその画を好んでおり、小さな模写を持っていて、「いつかは本物を手に入れたい。駄目なら見てみたいものだ」とよく言っていたからだ。


「その、画の中にいる少年が同じ少年ですね」


「そうさ。あと、これは実は模写しているうちに気づいたんだが……他にも、『東方三博士の礼拝』の端っこにいる若い王も、こいつと同一人物がモデルだろうなぁ」


 よっこらせとカルトーは、転がっていた「東方三博士の礼拝」の模写を拾い上げる。

 聖書にある、東方三博士――カスパール、メルキオール、バルタザール――が、聖母マリアに抱かれたイエスを礼拝するシーンの画だ。

 見ると、確かに画の左端、三博士のうしろに、若い、王のような人物が描かれている。

 たしかに、「卵を調理する老女」と「セビーリャの水売り」の少年が、少し大きくなった姿のように見える。


「こういう画を描いて、ベラスケスは宮廷画家になった。大したもんよ」


 カルトーも一時はその道を目指したことがあった。

 馬上のフランス国王ルイ十六世の肖像を描いたこともあった。

 しかし、カルトーは宮廷画家になることはなく、やがて訪れるフランス革命の勃発により、パリの国民衛兵に入隊し、今に至る。


「なぜ、宮廷画家にならずに、革命家に――軍人に」


 ナブリオーネとしては、単なる興味本位の質問だった。

 ただ、この質問が、のちにナブリオーネの運命を決めることになる。

 カルトーは肩をすくめて答えた。


「……かしこくも、ルイ十六世陛下は、錠前の方に造詣があった。それだけのことさ」


 ルイ十六世は錠前づくりを趣味としていた。

 そのため、絵画にはあまり関心がなく、宮廷画家についても、特に積極的に選ぼうとはしなかった。

 この点、フェリペ四世という、絵画については一家言を持つ国王の目に留まったベラスケスとは対照的である。


「そうだブオナパルテ少佐、さっきの作戦……ル・ケールの丘を押さえる作戦だがな、ドラボルド少将に話してみろ」


 どうやらカルトーは、画の話をしていて、機嫌と気前が良くなったらしい。

 比較的兵と弾に余裕がある、ドラボルド少将の隊を当ててくれることになった。


 ……だがこの展開は、最悪だった。



「どいつもこいつも阿呆ばかりだ!」


 ナブリオーネは宿営にしていた農家に入ると、罪のない鍋を蹴った。

 からんからんと音を立てて転がっていく鍋。


「……兵を出すのはいい。弾もだ。だが中途半端はいかん!」


 ドラボルド少将は確かにナブリオーネの指示通り、ル・ケールの丘に攻め入ってくれたが、あまりにも兵も弾も少なすぎた。

 カルトーはドラボルドに「お前ンとこでやれ」としか命令を与えなかったらしい。

 そのため、哀れなドラボルド隊は寡兵と少量の弾薬と共に、とル・ケールの丘に攻め入り、撃破された。


「しかも、最悪は」


 ナブリオーネは農家の窓から、その鋭い目つきで、ル・ケールの丘を見た。

 そこには、砦が立っていた。

 攻撃を受けたことから、イギリスがその丘をられることの危険性に気づき、即座に築かれた砦である。

 当時のイギリスの防衛司令官の名を取って、それはマルグレーブ砦と呼ばれた。


「あのような砦を作られて、これではレギエットとバラギエの要塞を奪って、トゥーロン港を撃つという、僕の作戦が台無しだ! どうしてくれる!」


 ナブリオーネは今度は頭上の三角帽を取り、それを地にたたきつけた。

 自分の作戦は最良だった。

 それを、中途半端な善意というか将兵を出して潰したのは、カルトーだ。


「無能な味方こそがたい! 何ということだ!」


 ナブリオーネは、ぎり、と歯を噛んだ。

 こんな奴らが指揮官だからいけない。

 ならばいっそのこと……。


「……む」


 その時ふと、ナブリオーネは先ほど蹴り飛ばした鍋を見た。

 先日、カルトーに見せてもらった「卵を調理する老女」のことを思い出す。


「ベラスケス、か……」


 前世紀スペインの宮廷画家。

 元画家のカルトーとはおおちがいだ。

 そのちがいは……。


「……そうか!」


 ナブリオーネは目を見開き、卓上のペンを手に取った。

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