画(え)と王と ~トゥーロン攻囲戦、ある内幕~
四谷軒
01 望潮(しおまねき)の画(え)
その夜――一七九三年十二月十六日、夜。
南仏、トゥーロン。
この年、二十四歳になるナブリオーネ・ディ・ブオナパルテ大佐は、フランス革命軍司令官デュゴミエの命令により、王党派に与するイギリス軍のマルグレーブ砦へと吶喊した。
マルグレーブ砦は、港湾都市トゥーロンを、良港たらしめている半島――ラ・セーヌ・シュル・メール半島の高みにある。
その高みはル・ケールの丘と呼ばれ、この丘を押さえれば。
「トゥーロンの海の入り口の要塞を撃てる! 占領できる! そうすればトゥーロンの港は射程距離だ! 兵士諸君、この戦いの勝者こそが、トゥーロンの支配者だ! 革命派こそが、支配者だ!」
掲げられた軍刀に、冬の雨が降りそそぐ。
雨は
だが、こういう雨だからこそ。
「突撃!」
冬の夜だ。
しかも雨。
誰しもが砦の中で、外套にくるまって寝ていたい。
だが、敢えてそういう夜だからこそ、ねらった。
そういう夜だからこそ、敵は鈍る。
その分、こちらは鋭くなれる。
「砦から人が出てきたぞ!」
「敵だ!」
「撃て!」
砦内から英国軍が
ナブリオーネはむしろ好機と、雨中、馬を進めた。
「奴らを倒せ! 追え! 追いかけろ! そのまま追いかけて、砦を奪ってしまえ!」
みずから範を示さんと、ナブリオーネはさらに突進する。
ところがその時、ナブリオーネの愛馬が撃たれた。
「……ふん」
だが、ナブリオーネは止まらない。
彼は馬から跳ぶように降り、その勢いのまま駆け出す。
今。
今この場こそが、分かれ目だ。
勝つか、負けるかの分かれ目だ。
ナブリオーネ・ディ・ブオナパルテは、それを見破る目を持っていた。
「ぐっ」
ナブリオーネの腿に、英国軍兵士の
「止ま……るな」
何とナブリオーネは、足を負傷しながらも、降りしきる雨の中、泥の中、這いずりながら、砦へと、ずるりずるりと進んでいた。
その気迫に、英国軍は怖気を震った。
ナブリオーネは笑う。
多量の出血で意識を失いつつあるが、笑った。
猛禽の笑いだった。
「敵は恐れをなしているぞ! 行け!」
ナブリオーネの叫びに呼応して、
「
歌の名は、
〽
ナブリオーネはその歌を耳にしながら、意識を失った。
*
時間を巻き戻す。
一七九三年九月。
ナブリオーネ・ディ・ブオナパルテ大尉は、王党派の要塞都市・トゥーロンを囲む革命軍に従軍していた。
ところが、革命軍の砲兵隊長が負傷してしまったため、ナブリオーネはその後任に抜擢され、少佐に昇任される。
これには、かねてからナブリオーネがオーギュスタン・ロベスピエール(マクシミリアン・ロベスピエールの弟。革命家)の知遇を得ていたことが大きい。
ナブリオーネは早速、トゥーロン攻略司令官であるジャン・フランソワ・カルトー将軍に面会を求めた。
「貴様がナブリオーネ・ディ・ブオナパルテとかいう男か」
カルトーは、何と
元は絵描きだったらしく、絵筆の走りはさすがに勢いがあった。
ナブリオーネが待っていても、絵筆は止まらない。
どうやら画を描くのをやめるつもりはないらしく、カンヴァスから目をそらさない。
ナブリオーネはしかたなく、そのまま会話を試みる。
「カルトー将軍閣下の作戦は、トゥーロン港内のイギリスとスペインの艦隊への砲撃と
「おう、そうだ」
カルトーは機嫌よくうなずく。
だが絵筆は止まらない。
見ると、蟹を書いているらしい。
片方のはさみが大きく、どうやら
「いいだろう」
いいというのは、作戦のことか、画のことか判別しがたかったが、どちらも悪くないと思ったナブリオーネは、おごそかにうなずいた。
「トゥーロンという港町ぁ、何というか、この、
カルトーは
「このはさみの大きい方――半島があって、小さい方の半島もある。大きいはさみと小さいはさみに守られた、蟹の腹が、港だ。ここにイギリスとスペインの艦隊がいる」
カルトーは、トゥーロンの街に
問題は、対仏大同盟に基づき、送り込まれたイギリス艦隊とスペイン艦隊だ。
これら両国の艦隊さえ撃破、あるいは退ければ、トゥーロンの街を落とすことなど、赤子の手をひねるぐらい、たやすいこと。
だが、イギリスもスペインもそこは用心して、トゥーロンのそこかしこに要塞を構築し、守りに意を用いた。
たとえば、
「そこでおれは考えたのよ。だったら、そいつら要塞どもの外から大砲をぶっ放して、港にいる船を叩こうとしたんだ」
カルトーは腹が立ったのか、描きかけの
ナブリオーネは、その蹴り飛ばされた画を拾い上げる。
「こんちくしょうめ、弾ァ当たらんのよ。届かんのよ。おまけに弾が不足するから、もう撃つなとか言われてよ」
「場所が悪いのです」
ナブリオーネは画をイーゼルに戻しながら、静かに告げた。
「
ナブリオーネは、
「このル・ケールの丘を取りましょう。ここからなら、レギエットとバラギエを撃てる。両要塞を落とせる。そこから港内の戦列艦を撃つことなど、造作もありませんよ」
ナブリオーネはそう受け合った。
※文中のラ・マルセイエーズについては、下記より引用。
「ラ・マルセイエーズ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2025年5月28日 (水) 12:51 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org
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