No.099|回線ノミ(Pullexonica modulatrix)
K助は、怒っていた。
言わなければ気が済まない。
もともと我慢強い方ではなかったが、ここ数日──いや、ここ数年の鬱憤が、ついに堪えきれなくなっていた。
言えばきっと、相手も怒るだろう。けれど、もう黙っているのは限界だった。
スマートフォンを手に取り、K助はM彦に電話をかけた。
──出なかった。
一方のM彦にも、鬱積した思いがあった。
ふとスマートフォンを見ると、K助からの不在着信があった。
その名を見ただけで、イラついた。
どうせ、また文句か説教だろう──けれど、言いたいことがあるのは、M彦も同じだった。
ここ最近、言い返さずにいたぶんが、じわじわと溜まっていた。
しばらくしてK助の電話が震えた
M彦だった。
「あ?何の用?」
K助は即座に怒声を返した──
「お前、なんの用じゃねーだろ! 今日もこないだもオレに尻ふかせやがって!」
ところが、M彦の耳に届いたのは、まったく別の言葉だった。
「いや、お前も色々大変だよな。こないだの件、うまくいってないの?」
M彦は、一瞬耳を疑った。
いつもなら怒鳴りつけてくるK助から、まるで気遣うような穏やかな声が返ってきた。
M彦は戸惑いながらも、
「大変なのは、お前が変なやり方を押し付けるからだろーが、くそが……」と、怒りをぶつけた──が。
K助の耳に届いたのは──
「うん……ごめんな。まあ……色々あってさ」
これまで一度も聞いたことのない、M彦の真摯な声音だった。
今度はK助が驚いた。
怒鳴り返してくると身構えていた。
けれど返ってきたのは、丁寧で、静かな謝罪だった。
拍子抜けしたまま、言葉が出てこなかった。
ふたりの通話は、すこしかみ合わないまま続き、かすかにやさしい余韻を残して終わった。
⸻
本種は“ノミ”と呼ばれているが、もちろん昆虫のノミとは無関係である。
S澤博士の盟友・H本氏は、通信回線上での“誰かの意志”を感じさせるような変調の存在に早くから気づき、それが人為的に創出された情報生物ではないかという仮説のもと、調査を進めていた。
背後にはニューエイジ系科学結社Xの関与があると見て、接触を試みた翌週、不審な死を遂げた。1980年代のことである。
結社はのちにCIAの介入により解体されたが、その時点で“ノミ”はすでに回線内に逃れ、拡散していた可能性がある。
S澤博士の手記には、そう記されている。
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■ 種名:回線ノミ
(Pullexonica modulatrix)
分類:回線共生型通信変調生物(非物質音声干渉体)
特徴:主に電話回線や通話アプリなど、音声がリアルタイムで送受信される通信経路に寄生する。
発話の、特に感情が大きく動く瞬間の数語に干渉し、語気や語尾を変調させる。
怒りや苛立ちといった強い感情を“丸める”ように調整し、結果として意図しない和解的応答が生じる。
備考:非物質的かつ極小のため、生態の全容は不明。
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■ 追記資料
冷戦期、某大国間で一触即発の緊張が高まっていた際、最後通告とされた電話会談で奇跡的な譲歩が成立した。その背後に本種の干渉があったという説がある。当時は結社Xの活動が最盛期であり、意図的な“平和介入”として本種が利用された可能性は、十分に考えうる。
また、現代のコールセンター業務においても、特定の期間、クレーム対応が異常に穏やかに進んだ例が複数存在し、録音された通話記録を再生すると“音声内容と応答の記憶が一致しない”という現象が確認された。
このケースにおいても、回線ノミの関与が疑われている。
偽書奇妙生物辞典 みはら @miharahitaki
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