No.092|帰巣銭(Zeni retinolus)

「金は天下の回りもの」という言葉がある。

いま手元にある十円玉が、もしかすると数年前にも自分の財布に入っていたかもしれない──そう考えることはできる。

いろんな人の手を渡り、落ち、拾われ、使われ、回って回って、また自分のもとへ。


だから何?と言われれば、それまでであるけれど。


使い古された道具が、長い年月を経て妖怪になるという話がある。

では、金属片のようなものにも、そういう“何か”が宿ることはあるのだろうか。


──


夜の街角、自販機の明かりがぽつんと灯っていた。

A太郎は缶コーヒーを買おうとして、小銭を入れた。130円。

100円玉を入れ、10円玉を1枚、2枚。

最後の1枚を入れようとしたとき、チャリン、と戻ってきた。


「あれ……」


もう一度。チャリン。

首をかしげながら、今度は少しだけ強く押し込む。

すると今度は認識され、ボタンを押し、缶が落ちた。ブラック無糖。

特に味の感想はなかった。


──午前3時すぎ。

街は静まり返り、ただ自販機の光だけがぽつんと路面を照らしていた。


そのとき、自販機の硬貨投入口から、カチャリ、と小さな音がした。

一枚の十円玉が、ゆっくりと顔を出し、地面に転がる。

しばらくその場で震えるように揺れたあと


──それは走り出した。


ホイールのように回転しながら、十円玉は静かな舗道を進んでいく。

側溝の金網を器用によけ、タクシーの車輪の間を縫うようにすり抜ける。

人が走るより速く、車よりはわずかに遅い。その速度は一定で、ためらいがなかった。


交差点の白線を滑るように横切り、やがて国道を北へと折れていく。

そこには住宅街があり、電灯がまばらに灯っている。

十円玉は道を選ぶように、いくつかの角を曲がり、歩道の端をなめるように進む。


どこかに引かれるように、ある一点へと向かっているように見えた。


到着したのは、午前4時前。

10円玉は建物のまわりをひとまわりしてから、外階段の下に回り込む。

エレベーターは止まっていた。階段の前、1メートルほど離れた位置から助走をつけて転がり、壁に当たって跳ねる──2段。

もう一度勢いをつけて、1段。次の跳躍は失敗して1段落ちる。

それでも、跳ねて、戻って、跳ねて。

まるで鮭の遡上のように、そうして2階へたどり着き、ある一室の前でぴたりと止まった。


ドアは閉まっていたが、下にごくわずかな隙間があった。

十円玉はしばらくその前にじっとしていたが、やがて体を横に倒し、

わずかに揺れながら──ゆっくりと、隙間の中へと潜り込んでいった。


部屋の中は暗く、ほとんど物音はなかった。

布団の中から、微かな寝息が聞こえている。A太郎だった。

テーブルの下にはA太郎の作業着が置かれ、そのそばに、ズボンのポケットから無造作に出されたであろう財布が転がっていた。


財布のファスナーはわずかに開いていた。

十円玉はその縁に身を寄せ、しばらくじっとしてから、角度を整えるようにゆっくりと滑り込んでいく。

わずかに革がこすれる音がして、内部に入ると、他の硬貨を避けるように小さく転がり、まるでそこがもともとの居場所だったかのように、ぴたりと静かに収まった。


──


二日後。

自販機のメンテナンス担当が売上を確認していた。

十円だけ、合わなかった。何度数えても同じだった。

その一枚のために報告書を書くのは面倒だった。

担当者はポケットから自分の十円玉を取り出し、無言で補填した。


──


その後、A太郎は何度もその十円玉を使った。

食堂での会計、スーパー、別の自販機。

だが、数日後にはまた、いつのまにか財布に戻ってきていた。


それが“同じ十円玉”であると気づく者は、まずいない。

A太郎ももちろん、気づくことはなかった。



■ 種名:帰巣銭

(Zeni retinolus)

分類: 金属型・非捕食性・回帰性個体(追従性硬貨型生物)

特徴: 一度“所有”された後、特定の個人の元に戻る性質を持つ。昼間は完全に硬貨としてのふるまいを保ち、主に夜間に自律行動を行う。

補足: 所有者を変える場合もあるが、条件は不明。繁殖や群体行動は確認されていない。単体での行動が基本とされる。



■ 出典注記(追記資料)


江戸中期の随筆『閑談記』に以下の一節が見られる。


「ある男 銭を拾ひて 財布に納めしに、使へども減らず 銭師に見せるに これは鋳物にあらず 活き物なりと云ふ」


また、明治期に収集された民話『関八州奇譚』には「夜な夜な財布に還る銭」として類似の話が複数見られる。

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