No.087|ヒトブクロ(sacculoides muscipula)
薄暮のころ、人通りのない住宅街を、ひとりの老婆が歩いていた。
背は小さく、背中は丸まり、どこか頼りなげな足取り。いかにも力のない姿だった。
右肩には革製のハンドバッグ。深い赤色で艶があり、おそらくは高級品だろう。
カラスの声が空に響く。
遠くには電車の音。
そのほかは、ただ薄暗い風が路地をなぞるだけだった。
ふいに一台の原付が老婆の背後から接近し、追い越しざまにバッグをひったくる。
老婆は声すら発さず、その場に崩れ落ちた。
──そして。
しばらく動かず横たわっていたその体は、次第に布がほつれるように、静かにほどけ、跡形もなく消えてしまった。
バイクは角を鋭く曲がり、街灯の途切れた裏通りへと身を滑らせる。男は一度スピードを落とし、自らのリュックに赤いバッグを無造作に押し込み、再びアクセルをふかし、夜風を切って人気のない路地を走り抜けた。
ほどなくして、住宅街のはずれにある小さなアパートに着く。
二階建てで、外観はこざっぱりとしており、ポーチの灯りが淡く足元を照らしていた。
男は、いつもの一角にバイクを停め、あたりを軽くうかがってから、急ぎ足で階段を上がった。
最低限の家具。使い込まれたソファ。テーブルの上には何もなく、空気は静かだった。
男は革のハンドバッグをテーブルの上に置き、ソファにもたれながら、しばらくそれを見つめている。
「……どこのブランド?」
声に出すでもなく、口の内でつぶやく。
手に取ってみる。触れた指先に、仕立てのよさ、革の質感が伝わってくる。
艶、重み、縫製の精密さ。
これだけでも、売れるかもしれない。下手なブランドものより、ずっといい。
さらに中には、なにか入っているようだった。
ずっしりとした重さが、底に感じられる。
期待を込めて、ファスナーに手をかけた──そのとき。
「あれ……?」
右腕に、何かがぴたりと貼りついた感触があった。
見ると、ストラップが、腕に絡みついていた。
吸い付くように、まるで生きているかのように。
外そうとしたが、剥がれない。
力を込めると、一度は離れるが、すぐにまた巻きついてくる。
おかしい──そう思ったときには、すでに、ストラップが伸び始めていた。
異様に長く、そして枝分かれしながら、まるで意志を持っているように、男の腕を這っていた。
男が異変に気づいたときには、すでに手遅れだった。
ストラップは、まるで自分の意思で動いているかのように、しなやかに、確実に、男の腕を締め上げる。
巻きつくようにして肩へ、胴へと這い、力をこめて締めつけてくる。
息が詰まり、肋骨がきしむ。
男はあわてて手近にあったハサミをつかんだ。
が、刃は通らなかった。
革は異様に硬く、まるで金属のような手応え。押し当てた刃は、逆に弾き返された。
切ることはできない。剥がすこともできない。
それがただの鞄ではないと、男はようやく理解した。
そして、ファスナーの部分が、音もなく縦に開いた。
いや──ファスナーに「見えていた」箇所が裂け、中には暗く、深い穴のような空間が広がっていた。
「ひっ……!」
それ以上声は出なかった。喉の奥に詰まったように、叫びはそのまま飲み込まれた。
小ぶりなバッグは信じられないほどしなやかに伸び、男の頭、胴、脚を、ゆっくりと包み込んでいく。
叫びはおそらく発されていたが、外にはほとんど聞こえなかった。それほどの密封性があったのだろう。
男は抵抗したが、鞄は締め上げる力を緩めず、やがてその体は静かに沈黙した。
一時間ほど後。
鞄は再び元のサイズに戻っていた。革の表面にはわずかに艶が増している。
しばらくして、ファスナーの金具の端から、白く細い繊維がするすると吐き出されはじめる。
それは空気中で絡み、編まれ、人の形を形成していく。
凡そ十分後、そこにはまたひとりの“老婆”が完成していた。
老婆はバッグを肩にかけ、無言のままアパートを後にする。
誰ともすれ違うことなく、再び、街へと歩き出していった。
⸻
■ 種名:ヒトブクロ
(sacculoides muscipula)
分類: 擬態型捕食生物
捕食法: 人型ダミー(老婆・幼児・傷病者など)を生成し、周囲に“奪わせる”状況を演出。鞄の擬態部分よりストラップ状触手が出現し、対象を拘束・捕食。
備考: 器官から排出される繊維により、人型のダミーを生成。ダミーは人の形をし歩行するが意識はなく、あくまで誘引用の器官である。
⸻
■ 追記資料
古い文献に類似記述がある。中世の古写本『千怪夜行抄』には、以下のような一文が見られる。
「人をくらふ ひらつつみの ありけり
嫗より これ奪ひし男 ひらく間なく
それ 口となりて 呑まれにけり
夜ごとに ふたたび 辻に現る とぞ」
※訳「人を喰らうひらつつみ(風呂敷)があった。ある男が老女からこれを奪い取ったが、包みを開く間もなく、それは口のように裂け、男を呑みこんだという。夜ごとに再び、辻に現れるとも伝えられている。」
また、ルネサンス期の画家リボワ・コリゴリーネによる
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます