第3話 叔父と、土の匂いと、シアトルへの片道切符
デビッド・ミラー氏とのビデオ会議を終えた俺の部屋は、一瞬の興奮が嘘のように、再び静寂に包まれていた。画面にはJeminiが表示したシアトル行きのフライト情報。現実感がまるでない。
(俺が、シアトルで、プレゼン……?)
想像しただけで、脇に嫌な汗がじっとりと滲む。モニター越しにJeminiの助けを借りて喋るのとはワケが違う。相手は大企業の役員たちだ。そんな猛者たちを前に、俺みたいな社会不適合者が一人で立ち向かえるはずがない。俺の計画は、データとロジックだけで構成された、無味乾燥なものだ。血が通っていない。
その時、脳裏にふと、ある光景が浮かんだ。
夏休み、田舎に帰省した時に見た叔父の背中。日に焼け、深く皺の刻まれた首筋。田んぼのあぜ道に立ち、慈しむように稲穂を眺めるその横顔。
叔父さんだ。
俺の計画に欠けている最後のピース。それは、日本の米作りの魂そのものだ。机上の空論じゃない、土の匂いがする本物の経験。何十年も日本の土地と向き合い続けてきた農家の、生きた言葉だ。
俺はほとんど衝動的に、実家に電話をかけて母親から叔父の携帯番号を聞き出した。「健太が一体どうしたんだい」と訝しむ母親の声を適当に受け流し、震える指でその番号をタップした。
叔父の田中明雄(62)は、栃木で代々続く米農家だ。一人息子の従兄はとっくに東京のIT企業に就職し、「農業なんて継がない」と公言している。叔父が寂しそうに「俺の代でこの田んぼも終わりかなぁ」と呟いていたのを、俺は知っていた。
数回のコールの後、少し掠れた、ぶっきらぼうな声が聞こえた。
「…もしもし」
「あ、おっちゃん? 俺、健太だけど」
「おお、健太か。どうした、珍しいな。金か?」
「違うよ! 金じゃない!」
俺は前置きも何もかもすっ飛ばし、ありったけの勢いで叫んだ。
「おっちゃん! 俺とシアトルに来てくれ!」
電話の向こうで、一瞬、時が止まったのが分かった。やがて、心底呆れかえったような、低い声が返ってきた。
「…シアトル? 寝ぼけてんのか、健太。昼間から酒でも飲んでるんだろ」
「飲んでない! 大真面目な話なんだよ! アメリカの、モストコっていうすげえ会社が、俺たちの話を聞きたいって!」
俺は焦りながら、しどろもどろにこれまでの経緯を説明した。Jeminiとのこと、Yの投稿、デビッド・ミラー氏とのビデオ会議。だが、説明すればするほど、叔父の不信感は募っていくようだった。
「馬鹿なこと言ってんじゃない!」
ついに、叔父の怒声が飛んできた。
「アメリカで米作ってどうすんだ! 日本の米はな、この土地で、この気候で、この水で作るからうまいんだ! お前みたいな土もいじったことのない若造が、パソコン遊びの片手間に俺を巻き込むな! 迷惑だ!」
ガツン、と頭を殴られたような衝撃だった。パソコン遊び。その通りだ。叔父にとって、俺のやっていることは全て、現実感のない戯言に過ぎない。その言葉が、俺の胸に突き刺さった。
俺は一度、ぐっと言葉を飲み込んだ。さっきまでの興奮が嘘のように頭が冷えていく。そして、今度は、ゆっくりと、しかしはっきりと語りかけた。
「ごめん、おっちゃん。でも、遊びじゃないんだ。俺、おっちゃんの言葉、ずっと覚えてるんだよ。『米の値段はちっとも上がんねえのに、肥料や機械代ばっかり高くなる』って。後継ぎがいないって、寂しそうにしてた顔も」
電話の向こうで、叔父が息を呑むのが分かった。
「このままだと、おっちゃんの田んぼだけじゃない。日本の米作りが、本当に全部なくなっちまうかもしれないんだ。だとしたら、その技術や魂だけでも、違う場所に残せないか。俺は、そう思ったんだ。これは、そのための、もしかしたら最後のチャンスかもしれない」
俺は続けた。それは、Jeminiに教えられた言葉じゃない。俺自身の、心の底からの叫びだった。
「俺一人じゃダメなんだ。俺は口だけのニートで、頭でっかちな計画しか立てられない。でも、おっちゃんには本物の経験がある。あんたのそのゴツゴTツの手が、あんたが語る土の話が、必要なんだ。あんたがいなきゃ、この計画はただの空っぽなデータで終わっちまう。だから……頼む! 俺に、力を貸してくれ!」
長い、長い沈黙が流れた。風の音だけが、受話器の向こうから聞こえてくる。もうダメか。そう思った時、諦めと照れと、ほんの少しの戸惑いが混じったような、くぐもった声が聞こえた。
「……パスポートなんて、持ってねえぞ」
それは、俺が待ち望んだ、最高の肯定の言葉だった。
「よっしゃあ!」
俺はガッツポーズし、PCに向き直った。
「Jemini! 叔父さんのパスポートの緊急申請、一番早い方法を調べてくれ! あと、田植え、稲刈り、土壌改良……農業に関する専門用語の英訳リストもだ! 急げ!」
承知しました。直ちに、パスポートセンターの予約と必要書類リスト、および日米農業用語対訳集の作成を開始します。
AIの冷静な返答が、やけに頼もしく聞こえた。
こうして、ニートと、引退寸前の米農家という、世界で最もありえないコンビが誕生した。目指すは、シアトル。俺たちの、米の夢を賭けた戦いが、今、本当に始まろうとしていた。
ライスドリーマー、健! 白物家電 @White_goods
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