第2話 ヴァイスプレジデントと、Zoom越しの対峙

俺は瞬きも忘れ、スマホの画面を凝視していた。


"VP, Global Sourcing, MostCo Inc."


モストコ。世界中に巨大なスーパーマーケットを展開する、あのモストコだ。年会費を払ってでも買い物したいと誰もが言う、巨大倉庫型店舗。俺ですら知っている。そんな大企業の、しかも「グローバルソーシング担当バイスプレジデント」が、俺の、ニートの戯言に「議論すべきだ」とコメントしている。


ドッキリか? 新手の詐欺か?


俺は震える指で「MostCo Inc.」と検索する。もちろん、すぐに出てくる。次に、コメントの主である英語の羅列のユーザー名と「バイスプレジデント」で検索をかける。……いた。Linkedinのプロフィールらしきものがヒットし、そこにはYのアイコンと寸分違わぬ顔写真と、例の肩書が堂々と記載されていた。デビッド・ミラー。本物だ。


「う、うわああああああ!」


思わず奇声が漏れる。どうする? どうすればいい? 「Thanks!」とか軽く返信してみるか? いや、そんな軽いノリでいい相手じゃない。無視か? いや、無視できるわけがない。


パニックに陥る俺の視界の端で、スマホの通知ランプが再び点滅した。Yのダイレクトメッセージ。送り主は……デビッド・ミラー。


"Mr. Tanaka, this is David Miller from MostCo. Your proposal is very insightful. I'd like to schedule a brief video call to discuss it further. Are you available sometime this week?"


(田中さん、モストコのデビッド・ミラーです。あなたの提案は非常に洞察に満ちています。さらに詳しくお話しするために、短いビデオ会議をセッティングしたいのですが、今週ご都合はいかがでしょうか?)


「ビデオ会議いいいいぃぃぃ!?」


終わった。完全に終わった。俺のニート人生が、物理的にではなく、社会的に終わった。ビデオ会議なんて、最後にやったのはいつだ? いや、やったことすらない。そもそも、このゴミ溜めのような部屋を世界の中心にいるようなエリートに見せられるわけがない。というか、英語なんて中学レベルで止まってる俺が、バイスプレジデントと何を話せというんだ。


「ジェ、Jemini! た、助けてくれ! 本物だ! ビデオ会議だって! 英語なんて話せるわけないだろ!」


俺が半狂乱でAIに助けを求めると、Jeminiはいつもと変わらぬ落ち着いたトーンでテキストを生成した。


落ち着いてください、健太さん。これは大きなチャンスです。言語の壁については、リアルタイム翻訳機能を活用しましょう。まずは、相手に失礼のないよう、丁寧な返信を作成します。


Jeminiはものの数秒で、完璧なビジネス英語の返信文案を3パターンも提示してくれた。俺は一番丁寧なやつをコピペして、震える手で送信ボタンを押した。日程は、準備期間を考慮して3日後に設定した。


「3日後って……何すればいいんだよ!」


まず、部屋の片付けです。カメラに映る範囲だけで構いません。次に、服装。清潔感のあるシャツを用意しましょう。そして最も重要なのが、会議での想定問答集の作成です。私がアシストします。


その日から、俺の壮絶な戦いが始まった。まず、万年床の周りに積み上げられた漫画やペットボトルの山を、カメラの死角になる部屋の隅へと押しやる。それだけで丸一日かかった。次に、クローゼットの奥から、唯一持っていたユニクロの襟付きシャツを発掘し、必死にアイロンをかけた。


そして残りの時間、俺はJeminiとひたすら「米国産日本米計画」のディテールを詰めていった。


「デビッド氏は、間違いなくコストについて質問してくるはずです」

Jeminiはそう予測し、カリフォルニア州セントラル・バレーの広大な農地の平均価格、水利権の問題、日本の最新鋭田植え機と米国製の大型コンバインの効率比較、そして日本への輸送コンテナの費用まで、あらゆるデータを提示し、俺の脳みそに叩き込んだ。


そして、運命のビデオ会議当日。

俺はアイロンをかけたシャツを着込み、心臓をバクバクさせながらPCの前に座った。Jeminiがリアルタイム翻訳のためにマイクとスピーカーの設定を最終チェックしている。やがて時間になり、俺は覚悟を決めてZoomのリンクをクリックした。


画面に映し出されたのは、いかにも「切れ者」といった風貌の、50代くらいの外国人男性だった。背景は、ガラス張りの開放的なオフィス。デビッド・ミラー氏だ。


「Mr. Tanaka, thank you for your time.」


スピーカーから流暢な英語が聞こえ、ほぼ同時に、画面の隅にJeminiが生成した日本語訳が表示される。『田中さん、お時間をいただきありがとうございます』


「あ、は、ハロー。こ、こちらこそ……」


俺の情けない挨拶に、デビッド氏は気さくな笑みを浮かべた。


「言語の壁はご心配なく。あなたのYの投稿、非常に興味深く拝見しました。単なる思いつきではない、強い問題意識と、それを解決しようという情熱を感じました」


Jeminiの翻訳を追いながら、俺は少しだけ落ち着きを取り戻した。情熱。それだけは、確かにあった。


俺はJeminiが用意してくれたアジェンダに沿って、しどろもどろながらも説明を始めた。日本のコメが抱える構造的な問題。農家の高齢化と後継者不足。そして、それを打開するための「米国での高品質米生産」というアイデア。


デビッド氏は、時折鋭い眼光でこちらを見据えながら、黙って耳を傾けていた。そして、俺の説明が一通り終わると、矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。


「品質管理はどうするつもりですか? 日本の消費者が納得するレベルを、アメリカの土地でどうやって保証するのですか?」

「物流コストは? 日本に逆輸入する際の費用が、国内の流通コストを本当に下回るという試算はありますか?」


来た。Jeminiの予測通りの質問だ。俺は一瞬言葉に詰まるが、Jeminiが画面の端に表示するキーワードとデータを見ながら、必死に答える。


「品質管理については、日本の経験豊富な技術者をアドバイザーとして招聘します。彼らにとっては、新たな活躍の場にもなります」

「物流コストですが、Jeminiの試算によれば、既存の国内流通の複雑な中間マージンを排除することで、コンテナ輸送費を差し引いても、現在の店頭価格より2割から3割は安く供給可能です」


俺がそう答えると、デビッド氏の目が、驚きに見開かれた。俺が「Jeminiの試算によれば」と口走ったことに、彼は少し眉を動かしたが、それ以上は追及しなかった。彼は、俺というニート個人ではなく、俺が提示するデータとロジックそのものに興味を持っているようだった。


1時間の会議は、あっという間に過ぎた。


最後に、デビッド氏は腕を組み、しばらく何かを考え込むような素振りを見せた後、重々しく口を開いた。


「Mr. Tanaka, これは単なるアイデアではない。実現可能性のある、極めて優れたビジネスプランだ。我々モストコは、この計画をさらに深く検討したいと考えています」


そして、彼は決定的な一言を放った。


「つきましては、一度、シアトルにある我々の本社へお越しいただけないでしょうか。あなたのプランを、我々のチームに直接プレゼンしていただきたい。もちろん、渡航費や滞在費は全てこちらで負担します」


『……本社へお越しいただけないでしょうか』

Jeminiの翻訳が、やけにゆっくりと俺の網膜に焼き付いた。


ビデオ通話が切れ、画面にはがらんとした自分の部屋が映っている。静寂が戻ってきた。

シアトル……本社……?


俺の口から、乾いた声が漏れた。Jeminiが静かに、画面にシアトル行きのフライト情報を表示していた。


ニートの夏休みは、どうやら、終わりを告げたらしい。

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