珈琲が硝煙に変わった日

下降現状

珈琲が硝煙に変わった日


「あなたを愛してしまったからです」


 僕の、どうして、という問いに彼女はそう答えた。

 彼女の右手には拳銃が握られており、銃口からは硝煙が名残を惜しむように立ち昇っていた。

 僕は自室の椅子に座り、その銃が吐き出したものを受け止めた先を……自分の胸を見る。


 ああ、こういうときは、痛い、よりも先に熱い、が来るのだな、と変に他人事のように思えた。

 僕はもう一度彼女を見る。

 そしてもう一度問う。


「どうして……」

 たった四文字を吐き出すだけで、身体が悲鳴を上げていた。死にそうだ。いや、きっと死ぬんだろう。

 彼女は涙を流していた。そして、自分も弾丸を受け止めたかのように辛そうな、くしゃくしゃな表情をしていた。


 ああ、嫌だな、と僕は思った。

 僕もまた、彼女を愛している。彼女が辛いほうが、辛そうにしている方が、自分が苦痛を受けているのよりもよほど辛い。

 彼女は本当に僕のことを愛しているんだろうと思う。


 そう、思いたいだけかもしれないけれども。

 彼女の涙は本物に見えた。

 だからこそ、分からない。どうして、彼女は僕を撃ったのだろう。


 拳銃を用意していたということは、衝動的な行為ではないのだろう。彼女は僕を撃つつもりで僕の部屋にやってきた。

 愛しているのに?

 どうして。

 その疑問に、彼女はもう一度答えてくれた。


「あなたを愛してしまったからです」

 愛しているのに撃つのではなく。

 愛してしまったから撃つのだ。


 その事は、彼女の中で間違いないことであるらしい。

 ……分からない。

 僕も彼女のことを愛している。


 年齢はそれなりに離れているが、彼女から愛を伝えてきて、それに受け止めた。

 それなりの期間交際し、愛を交わしあった。

 思い返してみても、それでどうして銃口を向けたのかが分からない。

「ごめんなさい、教授せんせい

 彼女はそう言って、銃口を少し上に向けた。

 胸ではなく、次は僕の頭を狙うのだろう。

 今度こそ間違いなく死ぬ。


 しかし、なぜ彼女は謝るのだろう。いや、銃を向けてきたんだから謝るのは当たり前なんだろうか?

 ああ……頭が全く回らない。

 僕達は、何処で間違ってしまったのだろう――? と、口に出そうとしたけれど、ひゅうひゅうと空気が漏れるだけだった。


 これはもう、本当に駄目だということなのだろう。

 こんなときなのに、僕は、彼女のために淹れたコーヒーが冷めてしまうかな、と思っていた。


:――:


教授せんせい、好きです。私と交際してください」

 僕が開講している、遺伝子工学のゼミの受講生である彼女にそう告白されて、僕はさすがに驚いた。


 彼女は今の受講生の中で唯一の女性で、成績は優秀、態度も真面目。あまり表情を変えることもなく、整った容姿と相まって、美しい人形のようなイメージがある。

 当然、ゼミ生からの人気も高いが、その誘いを全て断るのが彼女だった。


「それは、いわゆる異性として、男女として、ということ?」

「そうですね」

 僕の問いかけに対して、表情を変えること無く、彼女は続ける。


「私としては、結婚も視野に入れて交際したいと考えています」

「ええっと、どうしてだい?」

 言いながら、僕は彼女にコーヒーを出した。自分で飲もうと思って淹れたものだけれども、彼女が最後まで残るときは、ついでに淹れる事もある。


 教授室の机に座ったまま僕が問うと、彼女は小首を傾げた。

「え、好きになったから、ですけれども?」

「言葉のとおりなんだね」


 ははは、と僕は誤魔化したくなって笑った。

 そんな僕のごまかし笑いを意に介す様子もなく、彼女は僕の置いたコーヒーに口をつけて、ひとつ息を吐く。

「で、教授せんせい、お返事は?」


「そうは言うけれども、僕は教授で、君は学生だしなぁ……」

「それはつまり、逆に言うと立場以外の問題はない、という意味なのでしょうか?」

「それはその……」


 彼女の真っ直ぐな目で射抜かれて、僕は視線をそらした。

 否定できない。

 彼女は魅力的で、こうも直接的に迫られると気持ちが揺らいでしまう。なんだって、こんなに情けないのだろう、僕は。


 そんな僕の弱さを知ってか知らずか――聡明な彼女はきっと知っているだろう――彼女は淡々と続ける。まるで淀みなき清流のように。

教授せんせい、私は教授と学生の話をしているんじゃありません、男と女の話をしているんです」


 そう言って、彼女は無理やり僕の唇を奪った。

 僕は動くことが出来なかった。

 彼女がこんな、情熱的な事をするなんて、思いもよらなかったから。

「ん……」


 口づけしてきた彼女は震えていて、目を痛いほどきつく瞑っていて、唇も触れるだけだった。

 なんだ、随分と必死じゃないか。

 そう考えると、僕はとてつもなく、彼女が愛おしく思えてきた。

 彼女はいつもとても冷静で知的で、表情を動かすことも、感情を表すことも、あまりなかった。


 とても大人びていて、なんなら僕よりもよほどしっかりしているようにも見えた。

 でも、こうして恋するところを見せられると、そんなことはないんだなと。

 僕は言葉を出すこと無く、彼女の背に手を回して、その唇を受け入れた。

 コーヒーの味がした。


:――:


「君はどうして、このゼミに……というか、この学部に?」

 僕はゼミに入ったばかりの頃、彼女にそう聞いた。

 このゼミは、あまり女子学生が多くない。原因は分からないけれども、なんだかそうなのだ。


 独身の僕に原因が有る、とは思いたくはないけれども。

「そうですね……」

 他の受講生が、皆早々に出ていった後、最後に残った彼女は、一度考えて答えてくれた。


「探しているものが有りまして」

 淡々と彼女は言った。

「探しているもの?」

 探しているものとはなんだろう。少なくとも、この学部がそういうのに向いているとは、僕には全く思えない。


 第一、そんなものがあるのなら、探偵にでも聞いたほうがいいような気がするけれども。

 そんな僕の疑問に対して、彼女は答える。

「ええ、探しているんです」

「何を探しているのかな?」

「それは秘密です」


 にこりと笑う彼女。

 美しく整っていて、崩れそうにない笑顔は、聞いても答えるつもりはない――という意思表示のように、僕には思えた。

 話したくないなら、無理に聞き出す事はないだろう。


 あまり女子学生のプライベートに踏み込むのも、昨今いい顔はされない。

 だが、やはり少し気になる。

「それは残念。でも、この大学、結構お金かかるだろう? そこまでしてすることだったんだね」


 僅かに踏み込む。

 この大学は、国立に比べれば学費もかかる。

 かくいう僕も、ここに進学するのも、課程を進めていくのも、金銭的にとても苦労した。

 苦労のあまり、正攻法とは言えない――犯罪ではないけれども、自分を切り売りするような――方法で、お金を集めて、なんとかかんとかここに居るわけだけれども。


 では、彼女はどうなのだろう?

 金銭的に余裕がある家庭だったりするのだろうか?

 所作が上品だったりして、育ちが良さそうな感じは見て取れるのだけれども。


「うちは奨学金取れましたから。母に負担かけずに済んで良かったです。まぁ、そんなこと気にする人じゃないんですけれども」

「そうなのか」

 そこで母、という単語が出てくる辺り、シングルマザーの家庭なんだろうか。それこそ、踏み込みすぎるのは良くないから聞かないけれども。

 しかし、奨学金か。


 僕も奨学金申請したほうが良かったのだろうか。後の祭り、なんて言葉すら置き去りにしたような時期の話だけれども。

 そんな事をぼんやりと考えて、僕はコーヒーに口をつけた。

「それならまぁ、見つかるといいね、探し物」

「ええ、いつか」


:――:


 二発目の弾丸は撃てなかった。この人の事を、これ以上傷付けることが出来なかったのだ。

 殺しておいて、なんて身勝手なんだろう。

 自分でもそう思う。

 でも、やっぱり出来なかった。出来なかったのだ。


 本当に、好きだから。

 愛しているから。

 だから――殺すしか無かった。


 私は、教授せんせいの目蓋を閉ざす。安らかに、なんて思うことすら烏滸がましいのに。

 胸を撃ち抜かれて苦しんでいたはずなのに、瞳を閉じた教授せんせいの顔は、まるで眠っているときのよう。

教授せんせい……」


 涙が頬を伝うのがわかる。

 吐き気が、胸にせり上がってくる。

 誰が悪かったのだろう、と私は思ってしまう。


 教授せんせい? それとも、私?

 あるいは、母さん?

 いや、きっと運命がいけないんだと、私は思うことにした。

 間違いは有る。悪は有る。罪も有る。みんなに。でも、誰のものでもない。きっと、そう。


 ……部屋のコーヒーの匂いが、硝煙の匂いで塗りつぶされていく。


 私はなんだか、途方もなく悲しくなってしまった。

 そのまま自分のこめかみに、拳銃を突きつける。

 教授せんせいを撃った熱が、そこにはまだ残っていた。


「さようなら」

 銃爪に指をかける。教授せんせいに向けていたときはとてもとても重かったのに、今は、なんて軽いんだろう。

 願わくば……次は本当に、ただの男女として出会いましょう。

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