フライテファト

 目が覚めた瞬間、風の音がした。

 高い場所にいる。頬を撫でる風が、空気そのものを斜めに切り裂いていくような冷たさで、けれど寒いとは思わなかった。立っているのはビルの屋上。鉄の柵が錆び、床のコンクリートにはひびが走っている。

 見下ろしても地面がない。雲の底が闇に沈んでいて、そこから何も見えない。

 なのに恐怖はなかった。ただ、「これは現実ではない」という確信のような諦めだけが、胸の奥にひどく静かに居座っていた。


 背後に気配があった。

 振り返ると、六人の人間が立っていた。見知らぬ顔。全員が混乱しており、互いに名前を呼び合うでもなく、ただ黙って空を見上げたり、地面を探すように足元を見たりしている。

 その中に──妹がいた。


 妹は、夢の中のはずなのに、現実の彼女と同じ声で言った。

「お兄ちゃん、ここ……どこ?」


 答えようとしても、言葉が出てこなかった。

 その代わりに、背筋をひっかくような音が聞こえた。鉄を引きずるような、湿った摩擦音。

 音のした方向を見た瞬間、何かが階段から這い上がってきた。


 ボサボサの髪。白い肌。両手で抱えた巨大な──便器。

 男とも女ともつかぬ顔が、笑っていた。口が耳の下まで裂けて。

 その便器を振りかぶった瞬間、俺は妹を小脇に抱え、屋上から走り出していた。


 降りる。逃げる。

 階段は途中で途切れ、代わりに学校の机が宙を飛んで突っ込んでくる。

 避けるたびに、床が紙のようにめくれ、景色が裏返る。アスレチックのような足場、体育館のような空間、図書室、病院、トンネル。すべてが繋がっているのに、どこにも出口はなかった。

 けれど、どうにかして──俺たちは外に出た。


 外は、空が壊れたような街だった。

 ビルは斜めに傾き、道路には草が生え、遠くの空には巨大な月のような眼が浮かんでいる。

 終末後の世界。それが最も近い言葉だった。

 妹が袖を引いた。「ねえ、ここ、昼間みたい」


 確かに、暗いのに、明るかった。太陽はなく、影だけが昼のように振る舞っていた。

 歩いていくと、街には人がいた。

 四十人ほど。皆、奇妙に穏やかな笑顔で、俺たちを迎えた。

「よく来たね」「ようこそ、この夢の街へ」


 チョコレートをもらった。板チョコを、妹と半分に割って食べた。

 少し苦くて、少し甘くて──不思議と懐かしい味がした。


 この街の人々は、誰もが「ここが現実ではない」ことを知っていた。

 それでも、出ようとする者はいなかった。

「ここはね」と、年配の女性が言った。「シュブ…なんとかと、ハスターと、あと何体かの“神”が作った世界なのさ」

「神?」と尋ねると、彼女は笑って言った。

「ウツボカズラの中みたいなものよ。夢という蜜に誘われて、みんな吸い込まれてくる。出ようと思えば出られるけど、忘れられないの。甘い匂いが残るから」


 その言葉がなぜか、ひどく怖かった。

 街は穏やかだった。空は相変わらず、昼でも夜でもない灰色の光で満たされていた。

 でも、どこかに“試されている”ような感覚があった。


 おにぎりをもらった。

 普通のと、おにぎらずもあった。

 妹は海苔のないほうを選んだ。


 街を出るとき、背後から声がした。

「もし出たいなら、十四の試練を越えること。そうすれば、この夢を作った“誰か”に会えるよ」

 振り返ると、誰もいなかった。


 気づけば、崩れた塔の中を歩いていた。

 十四の試練の内容は、ほとんど覚えていない。

 ただ、指先が何度も裂け、膝が血だらけになり、泣く妹の手を離さずに進んだ記憶だけが残っている。

 そして──

 塔の最上階。

 そこにいたのは、■■■だった。


 ■■■は、人間の形をしていた。

 けれど顔がなかった。代わりに、そこには街の景色が映っていた。

 声がした。「ようこそ。君も、創る側になりたいのか」

 何を答えたか、覚えていない。

 ただ、気づいたら、俺はその神をぐるぐる巻にしていた。

 縄ではなく、言葉で。呪いで。思考で。

 神を小さく、小さく、丸めて、手のひらに乗せた。

 錆びた王冠を拾った。

 その中に、ぐるぐる巻の神を塗りたくった。


 途端に、王冠が光った。

 ビカビカ、ビカビカと。

 まるで自分が生まれて初めて見つけた“力”に酔っているみたいに。

 それが、ひどくウザかった。


 だから、食べた。


 金属の味。苦く、熱く、口の中で光が弾けた。

 その瞬間、音がした。世界が壊れる音だった。

 空が裂け、街が裏返り、妹の声が遠ざかっていった。


 ──目が覚めた。


 朝の光が眩しかった。

 息がまだ鉄の匂いをしていた。

 ベッドから出て、リビングへ行く。

 テレビがついていた。

 ニュースキャスターが言う。


『昨夜、七名の集団失踪事件が発生しましたが、本日早朝、六名の行方が判明しました。発見された全員は“夢のような場所にいた”と証言しており……』


 画面の隅に、六人の顔写真が並んでいた。

 見覚えがある。

 屋上にいた、あの人たちだ。


 俺は、思わず冷蔵庫を開けた。

 中には、板チョコが半分だけ残っていた。

 包装の裏に、鉛筆で書かれた文字。


 ──「■■■■に、よろしくね。」


…自分はまだ夢の中にいるのだろうか?

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