オブツダ。

 それは、世界の終わりよりも前の日のことだった。

 私は神だった。いや、もう違う。やめたい神だ。

 だがあいつ――養蜂家のロロッカ――がそれを許してくれない。


 「おい神ィ! 見てくれ! ついに完成したぞッ!」


 彼は興奮のあまり、蜜まみれの手でドアを蹴破って入ってきた。

 両手には、見るからに終末を孕んだトマト。

 腐りかけているのに自己主張が強い。いや、臭い。

 「……なんだそれ」

 「名付けてッ、熟し過ぎた+99熟完熟冷凍済み変速機付き規定重量超過カビトマトだ!!」


 神は頭を抱えた。

 ――説明を聞くのが怖い。


 「まず聞け! このトマト、ただのトマトじゃねぇ。熟度が+99だ。つまり、時間を超えて熟し続けた! 今じゃ味覚だけでなく存在そのものが甘い!」

 「存在が甘いって何だ」

 「舐めた瞬間、宇宙の方から“うまっ”て声がする」

 「それは多分、悲鳴だ」


 ロロッカは勢いを止めない。

 「さらに冷凍済み! つまり永遠に熟している状態を封印できる!」

 「それは熟してないのでは」

 「いや違う、これは熟し続ける冷凍なんだ」

 「冷凍とは」


 彼は床に転がる蜂蜜瓶を踏み潰しながら、トマトを掲げた。

 それでいいのか養蜂家!

 「これを神々にぶつければ、世界の支配構造そのものを破壊できるッ!」

 「お前、神の前で何言ってるか分かってるか?」

 「分かってる! お前も神だが、俺の友達だろ!」

 「やめたい神だ」

 「じゃあ今すぐやめろよ」

 「辞表の出し先がない」


 ロロッカは突然、私の肩を掴んだ。

 瞳が蜂蜜のようにとろりと光っていた。

 「なあ神……一緒に神々を抹殺しようぜ?」

 ……誘い方が甘い。

 その声はどこか、恋の告白に似ていた。


 「やめろ。私はもう、神であることに疲れたんだ」

 「じゃあ、俺が信仰してやるよ」

 「そういうのが一番重いんだよ!」


 私は天井を仰ぐ。蜂が一匹、逆さまに飛んでいる。

 もうこの家も終わりだ。


 「ロロッカ……お前、トマトに変速機をつけたって言ったな?」

 「おう。五段変速だ」

 「なぜ」

 「投げるときにギア上げると、重力がねじれる」

 「物理法則に勝とうとするな」

 「俺は蜜の法則で動いてる」

 「なんだそれは」

 「知るかボケが!」

 「!?」


 言葉が出なかった。

 だが、その瞬間――私は少し、心が温かくなった。

 こんな狂気の隣で笑っていられるのは、もうロロッカくらいだ。


 「……なあ神」

 「やめたい神、な」

 「今日の夕飯、トマト鍋な」

 「やめろォォォ!!!」


 その夜、私は久々に祈った。

 「どうか、この男に理性を」

 すると天界から声が降ってきた。

 『理性はもう在庫切れです』


 翌朝。

 ロロッカはトマトを天に投げた。

 それは、見事に爆散した。


 世界は崩壊しなかった。

 代わりに、空一面にトマトの種が降り注いだ。

 そのひとつひとつが光っていた。


 「見ろ、神! 神々の血だ!」

 「いや、ただのケチャップ雨だ」


 ロロッカは笑った。

 そして言った。

 「なあ、神。やっぱお前が一番トマトっぽいよ」

 「意味が分からない」

 「熟してるくせに冷たい」


 ……なんだそれは。

 だが、少しだけ胸に刺さった。

 私は黙ってトマトの雨を見上げた。

 もはや神をやめたい気持ちは、どこか遠くへ行っていた。


 空の向こうで、巨大なトマトが微笑んだ。

 その声が聞こえた。

 「よく熟れたなァ……」


 世界が真っ赤に染まり、私は思った。

 ――たぶん、友達をやめるにはもう遅い。

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