おまへはトゥアアルコアトス

 その日の夕飯は、見慣れぬ輝きを放っていた。

 皿の上で、ソースがじわりと渦を描いている。

 まるで何かの儀式のようだった。

 私は思わず、口にした。

 「おまへは、トゥアアルコアトスか?」


 すると皿が一瞬だけ動いた。気のせいではない。動いた。いや、震えたかもしれない。皿が怯えている。つまり私は正しい。


 「トゥアアルコアトス」というのは私が勝手に作った言葉で、意味は「焼き目のついた未確認生命体」。以前ピザトーストを焦がしたときに、パンの焦げが恐竜の化石に見えたので命名した。

 以後、私は食卓の未知生命体にすべてそれを適用している。

 例えば昨日のカレーは「液状型トゥアアルコアトス」、一昨日の肉じゃがは「自省型トゥアアルコアトス」である。


 ……さて、今日のこいつは何型だ?


 スプーンを手に取る。スプーンは私の味覚の第三眼。

 スープをすくおうとした瞬間、頭の奥に声が響いた。

 ――「198度だ」

 あっ、また出た。

 私の脳内補正装置〈シュールラルゥ式相対加熱変換器〉が勝手に作動している。

 要するに、私は全ての温度を198度回転させて解釈する癖がある。

 100度ならマイナス98度。つまり氷点。

 0度ならプラス198度。つまり燃える。

 この法則に従うと、このスープは今、実質燃えている。


 私は熱々のスープを冷静に見つめた。

 「冷たいな……」


 隣の席で母が眉をひそめたが、私は動じない。

 私の脳内では今、スープが青い炎を噴き上げながら「マルチフレーバーヘルズ・ディップスピリット」に進化した瞬間だった。

 その名前が一番長かった日には、味も一番濃い。経験則だ。


 私はゆっくりとスープを飲む。舌の上で、情報が爆ぜた。

 「おお……味が、分からん!」

 だが大丈夫だ、味は脳で補うものだ。

 私は思考でスープの味を生成する。

 小学校のプールの底みたいな塩味。

 風呂場のカビのような深み。

 そして遠い日の夏の記憶――。

 「うん、完全に味覚が迷子だ。」


 気づけば皿の上で、肉が増殖していた。

 「えっ、ちょっと待って、さっきまで三切れだったよな?」

 四切れ、五切れ、七切れ、三切れ。逆戻り。増減を繰り返している。

 私は理解した。

 ――こいつ、量子状態にある。


 フォークを構える。

 これはもはや食事ではなく観測だ。

 食べる=測定行為。

 つまり私はいま、シュレーディンガーの夕飯を前にしている。


 刺した。肉が悲鳴を上げた(気がした)。

 「お前は、観測されたが最後、味を失うんだよ……」

 私はフォークを口に運んだ。


 咀嚼。味が、消えた。

 「やはりな……!」

 私は勝利を確信した。


 だが勝利の余韻も束の間、脳内で警報が鳴る。

 ――《幻覚発生まで残り三秒》

 「は?」


 三。二。一。


 テーブルが傾いた。

 皿が宙に浮かび、ナイフとフォークが合体し、戦闘機の形になって飛び去っていく。

 スープが立ち上がり、「我は液状の支配者……」と喋り出した。

 母が叫ぶ。「何してるの! ご飯冷めるわよ!」

 ――違う!冷めるんじゃない、進化してるんだ!


 私は立ち上がる。

 頭の中ではBGMが流れ始めた。

 「ドゥンドゥン!トゥアアルコアトス、発進!」


 床を蹴り、椅子を盾に、私はキッチンへ突撃した。

 敵は冷蔵庫。氷の魔王。

 ヤツの中には未開封のケチャップと、沈黙する卵たちが待機している。

 「許せ、ケチャップ……君の命を燃料に変える!」

 キャップを外す音が、宇宙の扉を開けた。


 ――次の瞬間、全てが止まった。


 私はスプーンを持ったまま、現実に戻っていた。

 スープは、すっかり冷めていた。

 「……あれ?」


 そこにあるのは、ただの夕飯。

 温もりも、幻も、戦闘機も、すべて消えている。

 皿の中で、白い煙のようなものが立ち上っていた。

 私は呟いた。

 「もう……トゥアアルコアトスじゃないのか」


 その代わりに現れたのは、黒ずんだ塊。

 ラベルを貼るとすれば――「ハャリェニュサォォォカゥヒィス」。

 私が一番恐れていた、完全冷却後の最終進化体である。


 私はスプーンを置いた。

 食欲はなかった。いや、食べてはいけないと感じた。

 この生物は、もう料理ではない。思想だ。


 私は考えた。

 生きるとは、食べるとは、なんなのか。

 答えは出なかった。出るはずもない。

 だから私は――庭になった。


 翌朝、母が庭に出ると、私の姿はなかった。

 代わりに、畑の隅に一輪の花が咲いていた。

 花弁は金色で、中心にはスプーンが刺さっていた。


 風が吹くたび、その花はかすかに揺れ、囁くように笑った。


 「おまへは、トゥアアルコアトス……

じゃないだと!?」

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