件の剣

朝。スマホのアラームが鳴る前に、**「声」**が鳴る。


 


「また昨日と同じ朝だなあ、凡庸くん。

 満員電車で潰されに行く準備はバッチリ?」


 


 頭の中に響くその声は、自由で、喧しい。

 そして――何よりも痛い。


 


「黙れ……もう俺は……」


 


「“夢は作家でした”って履歴書に書いてたやつが、よく言うよな〜。

 『今は営業職です、やりがいあります』とかさ? 鼻で笑っちゃう」


 


 布団を跳ね除けるように起き上がる。いつものように、誰もいない部屋。

 自分だけに聞こえる**“声”**は、今日も休んでくれない。


 



 


 29歳、独身、営業職。

 月曜から金曜まで同じ電車に乗り、同じ駅で降り、同じように胃を痛めながら客先に頭を下げる。

 夢? そんなものは、とっくの昔に棚の奥にしまった。


 小説家になりたかった。

 高校生のときに書いたファンタジー小説が、ネットで少しだけバズった。あの頃は「いける」と思っていた。


 でも大学では文学より就職のことを考えるようになり、気づけば筆を置いていた。

 現実は、時間も金も、何もかもが“やりたい”に冷たかった。


 


「言い訳だけはうまいな、おまえは」


 


 仕事の帰り道。イヤホンをしていても、「声」は止まらない。

 満員電車の窓に映る自分は、毎日少しずつ下を向くようになった。


 


「もういいだろ。俺は、俺なりに頑張ってる」


 


「“俺なり”って言葉、便利だよな。

 実は何も変えてないって意味なのに、慰めになるもんな」


 


「……うるさい」


 


「でも、俺のこと否定し続けてるくせに、まだ“聞いて”るんだな、おまえ」


 


 図星だった。

 どこかで、自分の中のこの「声」が、真実だと分かっていた。

 分かっていたからこそ、耳をふさげない。


 



 


 ある日、会社の後輩・春川に言われた。


 


「先輩ってさ、何かやってたんですか? 学生時代とか」


 


「え……なんで?」


 


「なんか……喋り方とか、空気とか。今はすごい“社会人”って感じですけど、

 なんか、もっと違うモノがあった人なんじゃないかなって」


 


 言葉が詰まった。春川はあっさり続ける。


 


「俺、演劇やってたんですよ。高校まで。でも親に反対されて辞めちゃって。

 “声”がまだ、たまに聞こえるんですよ。舞台に立ちたがる声」


 


 その一言が、刺さった。


 自分だけじゃなかった。

 誰にも言えない“声”を、抱えている人が他にもいた。


 


「そうだよなあ、おまえだけの“病気”じゃないんだ。

 でも、そう思って安心しちゃうところがまた、情けない」


 


 その夜、久々にパソコンを開いた。

 ファイルの奥に眠っていたタイトル、『件の剣』。


 高校時代に書いたファンタジー。

 世界を救うために、“自分の心に刺さった剣”を引き抜く少年の話。


 


「おお、それ! それだよ! 引き抜けよ、おまえも!」


 


 指が震えた。


 誰も読まない文章に、再びカーソルが点滅する。


 


「まだ……遅く、ないのかな」


 


「遅いに決まってんだろ。

 でも、それでも、もう一回やってみたくなる。

 それが――おまえなんだよ。俺なんだよ」


 



 


 それから、少しずつ文章を書き始めた。

 最初は会社にバレないように、深夜に少しだけ。

 「声」は相変わらずだったけど、以前より少しだけ優しくなった気がした。


 


「どうした? また調子に乗って、落ち込むパターンじゃねーの?」


 


 「かもな」と笑いながら、それでも文章を書く。

 不安と焦りの中でも、指先だけは前に進もうとしていた。


 ある日、コンテストに出した短編が佳作を取った。

 賞金も栄誉もなかった。でも――読まれた。


 


 感想欄には、一言だけ。


 >「剣を抜いた少年は、きっと書いたあなた自身だと思いました」


 


 泣いた。

 画面の前で、情けなく声を上げて泣いた。

 過去に捨てたと思っていた剣は、ずっと心の中にあって、自分にしか引けなかった。


 


「な? 無敵だった頃の俺は、まだここにいたろ?」


 


「……うん」


 


「もう、俺のこと否定しなくていいぜ。

 これからは、“一緒”にやろう」


 


 ようやく、素直になれた。

 ようやく、「声」が、自分だと認められた。


 



 


 春川が転職した。

 演劇関係の小さな会社に入るという。


 


「先輩のおかげですよ。なんか、勇気出た。

 誰だって、“声”ってあるんですね。聞くの怖かったけど」


 


「なあ、春川」


 


「はい?」


 


「その“声”って、昔のお前自身だと思わないか?

 無敵だった頃の、お前がずっと叫んでたんだよ、きっと」


 


 春川は笑った。


 


「それ、タイトルにしましょうよ。“過去の風”とか、どうです?」


 


「……採用」


 



 


 今も、「声」は隣にいる。

 朝、アラームより先に目が覚めて、

 「おはよう、凡庸くん」と茶化してくる。


 でも、もう否定しない。

 それが剣であり、自分の核なのだから。


 会社も辞めていない。夢と現実を天秤にかけるのは、もう意味がないと知った。

 どちらも持っていていい。両立できなくても、持っていていい。


 


 そして今日も、誰かがどこかで、“声”に耳を塞いでいる。


 夢を忘れたふりをして。

 剣を抜けなかった自分に、言い訳しながら。


 


「変わっちまうのさ。

誰も彼も。

でもそれが、一度きりとは、限らないだろ?」


 


 ――それは、「声」の最後の一言だった。


 もう、これ以上は何も言わなかった。

でも、いつも此処にいる。

もう隠さないように。

 


 剣は抜かれ、語られ、そして物語として…

残っていく。


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