件の剣
朝。スマホのアラームが鳴る前に、**「声」**が鳴る。
「また昨日と同じ朝だなあ、凡庸くん。
満員電車で潰されに行く準備はバッチリ?」
頭の中に響くその声は、自由で、喧しい。
そして――何よりも痛い。
「黙れ……もう俺は……」
「“夢は作家でした”って履歴書に書いてたやつが、よく言うよな〜。
『今は営業職です、やりがいあります』とかさ? 鼻で笑っちゃう」
布団を跳ね除けるように起き上がる。いつものように、誰もいない部屋。
自分だけに聞こえる**“声”**は、今日も休んでくれない。
*
29歳、独身、営業職。
月曜から金曜まで同じ電車に乗り、同じ駅で降り、同じように胃を痛めながら客先に頭を下げる。
夢? そんなものは、とっくの昔に棚の奥にしまった。
小説家になりたかった。
高校生のときに書いたファンタジー小説が、ネットで少しだけバズった。あの頃は「いける」と思っていた。
でも大学では文学より就職のことを考えるようになり、気づけば筆を置いていた。
現実は、時間も金も、何もかもが“やりたい”に冷たかった。
「言い訳だけはうまいな、おまえは」
仕事の帰り道。イヤホンをしていても、「声」は止まらない。
満員電車の窓に映る自分は、毎日少しずつ下を向くようになった。
「もういいだろ。俺は、俺なりに頑張ってる」
「“俺なり”って言葉、便利だよな。
実は何も変えてないって意味なのに、慰めになるもんな」
「……うるさい」
「でも、俺のこと否定し続けてるくせに、まだ“聞いて”るんだな、おまえ」
図星だった。
どこかで、自分の中のこの「声」が、真実だと分かっていた。
分かっていたからこそ、耳をふさげない。
*
ある日、会社の後輩・春川に言われた。
「先輩ってさ、何かやってたんですか? 学生時代とか」
「え……なんで?」
「なんか……喋り方とか、空気とか。今はすごい“社会人”って感じですけど、
なんか、もっと違うモノがあった人なんじゃないかなって」
言葉が詰まった。春川はあっさり続ける。
「俺、演劇やってたんですよ。高校まで。でも親に反対されて辞めちゃって。
“声”がまだ、たまに聞こえるんですよ。舞台に立ちたがる声」
その一言が、刺さった。
自分だけじゃなかった。
誰にも言えない“声”を、抱えている人が他にもいた。
「そうだよなあ、おまえだけの“病気”じゃないんだ。
でも、そう思って安心しちゃうところがまた、情けない」
その夜、久々にパソコンを開いた。
ファイルの奥に眠っていたタイトル、『件の剣』。
高校時代に書いたファンタジー。
世界を救うために、“自分の心に刺さった剣”を引き抜く少年の話。
「おお、それ! それだよ! 引き抜けよ、おまえも!」
指が震えた。
誰も読まない文章に、再びカーソルが点滅する。
「まだ……遅く、ないのかな」
「遅いに決まってんだろ。
でも、それでも、もう一回やってみたくなる。
それが――おまえなんだよ。俺なんだよ」
*
それから、少しずつ文章を書き始めた。
最初は会社にバレないように、深夜に少しだけ。
「声」は相変わらずだったけど、以前より少しだけ優しくなった気がした。
「どうした? また調子に乗って、落ち込むパターンじゃねーの?」
「かもな」と笑いながら、それでも文章を書く。
不安と焦りの中でも、指先だけは前に進もうとしていた。
ある日、コンテストに出した短編が佳作を取った。
賞金も栄誉もなかった。でも――読まれた。
感想欄には、一言だけ。
>「剣を抜いた少年は、きっと書いたあなた自身だと思いました」
泣いた。
画面の前で、情けなく声を上げて泣いた。
過去に捨てたと思っていた剣は、ずっと心の中にあって、自分にしか引けなかった。
「な? 無敵だった頃の俺は、まだここにいたろ?」
「……うん」
「もう、俺のこと否定しなくていいぜ。
これからは、“一緒”にやろう」
ようやく、素直になれた。
ようやく、「声」が、自分だと認められた。
*
春川が転職した。
演劇関係の小さな会社に入るという。
「先輩のおかげですよ。なんか、勇気出た。
誰だって、“声”ってあるんですね。聞くの怖かったけど」
「なあ、春川」
「はい?」
「その“声”って、昔のお前自身だと思わないか?
無敵だった頃の、お前がずっと叫んでたんだよ、きっと」
春川は笑った。
「それ、タイトルにしましょうよ。“過去の風”とか、どうです?」
「……採用」
*
今も、「声」は隣にいる。
朝、アラームより先に目が覚めて、
「おはよう、凡庸くん」と茶化してくる。
でも、もう否定しない。
それが剣であり、自分の核なのだから。
会社も辞めていない。夢と現実を天秤にかけるのは、もう意味がないと知った。
どちらも持っていていい。両立できなくても、持っていていい。
そして今日も、誰かがどこかで、“声”に耳を塞いでいる。
夢を忘れたふりをして。
剣を抜けなかった自分に、言い訳しながら。
「変わっちまうのさ。
誰も彼も。
でもそれが、一度きりとは、限らないだろ?」
――それは、「声」の最後の一言だった。
もう、これ以上は何も言わなかった。
でも、いつも此処にいる。
もう隠さないように。
剣は抜かれ、語られ、そして物語として…
残っていく。
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