第16話 緑と匠⑤
会社に話したら、あっさりとこの家を買い取ってくれた。
そもそも自社で売った物件だし、再査定の手間が省けて、時間のロスがなかった。
ローンとか面倒な手続きも無かったから、手続き関係のコストが浮いて、手残りも良かった。この家を次の持ち主に売り渡すことが、俺の最後の仕事になる。
「問題ないだろ」
とりあえず実家に戻ることにした。
離婚して父親だけになった実家の一軒家は、部屋が余っている。
『今日、片付けにいく。彼ピと』
緑からチャットが来ているけど、何時に来るかは書いてない。
「俺にあてつけてどーすんだよ」
緑のどや顔が想像できない。あいつはあんまり表情が無いからな。
携帯で動画を見る。
朝一で気になるコンテンツを見つけたけど、長いから、まとまった時間が欲しかった。
途中で緑が来たら、中断せざるを得ない。でも、気になるから、やっぱり今、見よう。
『教えて!匠先生!初の出張授業……なんと初顔だし!』
やべぇ、ドキドキが止まらねぇ。
実は、昔から匠先生のチャンネルが好きだ。
この人は毎日のルーティンを徹底してこなしていて、勉強熱心で、分かり易くまとめて発信している。俺も勇太と適当に動画作っていた時期があったけど、この人のとは熱の入り方が違くて、リスペクトしてた。
そして彼は、俺が初めて好きになった女、茜の彼氏でもある。
あの時、大学3年の春、俺は茜に溺れた。
茜は当時、『あかねえnoアカ抜けチャンネル』というのをやっていた。
俺はあかねえの大ファンでもあった。
同じ大学に通う同級生と知った時には、ぶっちゃけ舞い上がった。
何としてでも付き合いたいと、近付いたが、俺はやり方を間違えてしまった。
いや、あの時は、あれしかなかったんだ……
お堅い茜に、本物の俺が話しかけても相手にしてもらえない。
だから俺は、匠先生に成り済ましたんだ。
茜は信じて、俺と付き合った。
結局、バレて振られた。
どんな男なのか、一度見てみたかった。
画面をタップして、動画を再生させた。
賢そうだな。思ってたイメージと近かった。
茜が好きそうなタイプだ。たぶんな。
もっと、嫌味なやつであってほしかった。そしたら、茜に「あんなののどこがいーんだよ」って言ってやるのに。今、敵わない事が確定して、俺は凹んでる。そう、すごく落ち込んでる。もうよしよししてくれる緑さえ居ない。一人で立ち直れっかな。
「やっぱ、スゲーな」
気が付いたら、1時間半の動画を見終わっていた。
腹が減ったけど、緑が彼ピと来たら、メシでも誘うか。
ガチャ
玄関から声がしてきた。
とうとう、お出ましか。
「来たよ」
緑がリビングに入ってきた。
後ろに居るのが彼ピか……いや……匠先生か……は?……彼ピ……匠先生……は?……
バグる
「どした?」
緑がキッチンで手を洗いながら、こっちを見て言った。
匠先生も俺を見てる。
「たっくん……」
匠先生に、その名を呼ばれて、カッとなった。
気が付くと匠先生の胸ぐら掴んで殴ってた。
ドスッ
匠先生が壁に背中をぶつける。俺は二発目をぶち込んだ。
緑が俺と匠先生の間に割って入ってきた。
「どけっ!」
緑を押しのけたら、思いの外吹っ飛んで、床に転がった。
やばっと思ったら、匠先生が俺の手を振り払って、緑に駆け寄ってた。
「緑さん」
「どいて!」
緑が匠先生を押しのけて、俺に殴りかかってきた。
ちっせえ緑が俺の胸をドスドスと叩く。
なんだよ、こんなに痛いパンチ、受けたことねーよ。
「緑さん」
匠先生が緑を後ろから抱きとめた。
「僕が悪いので、その……」
「はあ?なんで?たっくんが福ちゃんを殴ったの、意味分かんない!」
こんな感情むき出しの緑は初めて見た。
「茜と別れたのかよ」
「……」
「答えられねぇことしてんじゃねーよ!」
匠先生に凄んだ。
「たっくんには関係ないでしょ!」
「緑、お前、知ってて付き合ってんのかよ!」
「放っといてよ!」
緑は匠先生の手を引いて、行ってしまった。
「ったく、なんなんだよ……」
□□□□
プチューン、プチューン
このうるさい電子音で心の雑音をかき消す。
「匠から誘ってくれるなんて珍しーじゃん」
「おう、勇太君、いらっしゃい」
「オーナー、俺、ビール」
俺の3杯目のビールと乾杯。
「今日、緑の彼ピに会ったんだ」
「そんで、やけ酒してんの?」
「匠先生だったんだ」
勇太がむせた。オーナーがおしぼりを追加で渡した。
「嘘だろ?!あの二人?そーなの?」
「家に連れて来たんだ」
「マジかよ!」
4杯目のビールを頼む。
「殴っちった」
「そーなるよな」
泣けてきた。
「茜は、まだ匠先生と付き合ってるんだよな……」
「そのはずだけど」
「ちゃんとしてくれってんだよ、匠せんせーよぉ」
勇太が俺の背中に手を置いた。
「香織と茜っち、呼んでいい?」
「あ?」
「一緒に飲んだらいーと思うんだ」
「イヤだよ」
電子音がうるさくて、人が来たことに気が付かなかった。
「実は、もう呼んじゃってて、わりぃ」
振り返ったら香織ちゃんと茜が立ってた。わりぃじゃねーんだよ。
「ふざけんなよ」
急いで腕で顔をこすった。
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