第13話 緑と匠②

 緑を送り出したので、職場に向かう。

 今日はいつも以上に気が重いが、行かなくてはならない。


 昨日は俺史上、かなりヒドイ一日だった。

 仕事のストレスに耐えきれず、緑に泣きながら寝落ちする姿を見せてしまった。

 頭、よしよしに、まじで救われた。


 昨日は朝から上長に呼ばれて、参加した会議に茜がいた。

 まさかの出来事だった。十年近く経っているのに、茜はまるで変わっていなかった、いや、むしろ、より綺麗な女性になったな……と。


「セキュリティの件は、弊社で一番使い慣れている、三重君がいいから。ヒアリングなら、彼とお願いね」


 それだけ言い残し、茜と会議室に残された。


「丸投げかよ……」

「ふっ」


 あ、笑った。


「久しぶりだな」

「うん。こんな偶然あるんだね」


 大学3年生の痛くて苦い思い出が蘇る。


「今も匠先生と?」

「うん」


 そうだろうって覚悟して聞いたが、思っていた通りの返事なのに、えらく傷ついた。


「結婚は?」

「してない」


 なんで未だなんだよ、という匠先生への怒りと、もしかしてという、茜への期待で、気持ちが混乱した。


「ごめん、今日はこの後、予定があって、ヒアリングだろ?明日でいいか?」


 そう言って、俺は、アポを取っていた客先に向かった。

 昨日は、大きな受注案件が待っていた。既に自分が住む家は持っているはずの、夫の稼ぎがいいだけの、下品な客に会った。


 茜と会った後だけに、昨日はことさら辛かった。

 仕事だと割り切って、抱くしかなかった。

 一人抱けば、一件売れる。


 虚しい気持ちで帰ったら、鍵を持って出てなくて、緑に電話せざるを得なかった。

 昨日は、本当に最悪の日だった。


 今朝、気分転換に飯作ったら、緑に彼ピがいると判明した。

 喜ばしい。俺んとこなんか出て、そいつとよろしくやったらいい。


 今日は、アポはない。

 午後、茜が会社に来て、昨日の続きのヒアリングとやらをするのだろう。

 会えるのは嬉しいが、こんな生活を送っている俺を知られたくはなかった。


「お疲れ様でーす」


 こういう時こそ、声を出していこう。


「匠さーん、2番にお電話でーす」

「はい。お電話代わりました、三重です」

「すみません、突然。私、都内でダーツバーを経営している……」

「オーナーっすか?!」


 声ですぐに分かった。大学生の時にお世話になったバイト先のオーナー店長だ。


「覚えててくれたか。嬉しいなぁ」

「どーしたんっすか?」

「匠君の事は、時々、店に来てくれる勇太君から聞いててね。今回はちょっと、店を処分しようかと思って、相談をさせていただきたいんだ」

「いーすっよ。俺は、マンション専門なんで、店舗関係の部署のやつ、紹介しますよ」

「有難いよ。急がないんだが、お願いできるかな」

「今日の夜にでもお邪魔していーすっか?個人的に先に話聞いときたいんで」

「ああ、待ってるよ」


 思いがけなかった電話にテンションが上がった。

 会議の後、茜のこと、誘ってみよう。




 聞かれたことにはスムーズに答えられた。

 だが、何を聞かれたか、もうさっぱり記憶にない。


「長い時間、取らせてごめんね。こんなに大きな案件、初めてで」


 茜の初めては、俺の大好物だ。その言葉、ありがたくいただく。


「この後、会社戻んの?」


 もう6時近い。


「ううん。今日は直帰する」


 相変わらず真面目そうだ。だから、断られる事が前提だ。砕けると分かっていても、当たってみるんだ。どんだけ自分に発破をかけても、あの一言が言えない。


「この後さ……」


 やべ、声がひっくり返った。ダサ。いいや。逆に冷静になれたわ。


「飲み行かない?」

「私と?」


 他に誰がいるってんだよ。


「知り合いがやってる、ダーツバーに行くんだ。一緒に行かないか?」


 頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。


「行こっかな」


 やっっったぁぁぁーーーーーー!!!!




 □□□□




 プチューン、プチューン、プチューン、ズドドドドォォォ!!!


 重たい扉を開けた瞬間、ものすごい電子音が聞こえてくる。

 懐かしい。


 しゃべり声が聞こえないから、茜の肩をトントンして、カウンターを指さす。

 茜と出掛けたかったのは間違いないが、オーナーと話に来たことを忘れちゃいけない。


「俺、ビール、茜は?」

「私もビール」

「飲むの?」

「少しね、たまにだけど」


 オーナーが注いでくれた。ついでに腹に溜まりそうなものを頼む。


「ピザくらいしかないけど」

「じゃ、それで」


 茜は愉快そうにダーツマシーンを見ている。


「やったことある?」


 首を横に振った。可愛いなぁ、もう。


「あとでやってみる?」


 うん、うん、と頷いている。抱きしめてぇ。


「オーナー、なんでここ売りに出すんですか?」


 酔っぱらう前に、聞いておかなきゃならないな。

 平日の夜で、この客入りなら、悪くはなさそうなのに。


「実は、今、5店舗持ってんだけどね、そのうちの一つが、えらい赤字でね、どう頑張っても採算が取れないから、そこを閉店することにしたんだ」


 黙って頷く。


「そこがまた、一番面積の大きいところで、思いの外、原状回復費がかかってね。仕方ないからここを売って、その金を回そうって思ってる」

「いくらを見込んでるんですか?」

「出来れば7千万欲しいけど、5千万でもいいよ」

「居抜きですよね」

「ああ。機材も丸ごと全部置いてくよ。どう思う?いけるかな?」

「他に話しました?」

「まだ、匠んとこだけだ」

「あざっす。ちょっと考えがあるんで、持ち帰らせてください」



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