序章:第6話

   心は風騒かぜさわぐ空の雲の如く



 そのまま、らんは翔を保健室へと連れてゆき、保険医に容態を説明してベッドを借りた(ゴミ箱も保険医が洗ってくれた)。


 そして、翔が布団に潜り込み、自分はさりげなくそばの丸椅子に腰掛けたところで、ようやくまともに口を開いた。


「いろいろ、訊きたいことはあると思うけどね」


 表情からけんは消え、もとの仔猫のような顔に戻っている。


「なにから話そうか」

「って、言われてもなぁ……」


 枕と頭の間に両手を挿しはさみ、翔は天井を仰ぐ。

 混乱しすぎていて、質問がまとまらない。


 花脊はなせの怪物──誰もいない廊下──長髪の男────


「お前……なんなの?」


 ようやく出た言葉がそれだった。


「ボクは……」


 翔から眼を逸らし、鸞はしばし言い淀む。


「ボクは、ずっと前から、ある組織に所属してる」

「組織?」

「うん。人に仇成あだなす、人ではないもの達と闘うための、ね。ボクたち自身は〝しゅう〟って呼んでる」


 人ではないもの……それがなんなのかは、説明されるまでもなかった。


「妖怪なのか? それとも、悪魔?」

「言い方は決まってない。怪魔、魔物、化け物、妖物……ボクら衆では〝ヨウシュ〟って呼んでる。妖怪の妖、と種で妖種ようしゅ


 現存の生物群とはまったく異なる種か──その名称を脳裏に書いて、翔はそう理解した。


「そんなものが、本当にいたなんて……じゃぁ、あれは花脊の偽物だったのか?」

「そうとも、違うとも言える」


 その意味は、よくわからなかった。


「詳しく調べてからじゃないと、確かなことは言えないけど……たぶん、あれは花脊さんを食べて、なりすましてた」

「食って、なりすます?」


 話が飲み込めず、翔は鸞の言葉を反芻はんすうするように、オウム返しにする。


「人の肉だけじゃなくて、その人の姿形、記憶や性格までそっくり吸収して自分のものにできる。完全なコピーになって、次の獲物を探すんだ」


 ぞく……翔の背筋が冷えた。


「おい、それじゃぁまさか花脊以外にも──」

「いる……かもね」


 一瞬、鸞が言葉に詰まる。さらっと言ってのけようとして失敗したようだ。


 それが、なおさら翔の困惑をあおった。


 人間を食うような危険な存在が、生徒の姿をして紛れ込んでいる。隣の席、同じクラス班、いや、すべてが疑わしい。

 おまけに姿も性格も記憶も本物と同じ。どうやって見分けろというのだ。気付いたときには、はじめの二の舞だ。


 あいつも、あいつも、人間じゃないかもしれない。


 不安は猜疑さいぎに、猜疑は恐怖となって、またたくまに翔の精神をどす黒く染めてゆく。

 今すぐ逃げ出して、家に閉じこもりたい。

 そこに、「心配だから」「先生に頼まれたから」とでも言って訪ねてくる奴がいたら?

 そいつが妖種だ。親切にするふりをして、肇のようにむさぼり喰らおうと────


「翔」


 パンッ──目の前で鸞が手を叩いた。


「いま、よくないこと考えてたでしょ?」


 勘がいいのだろうか。それとも、よほど顔に出ていたのか。

 実のところ、知り合いが家を訪ねて来たなら、どうすれば即座に抹殺できるか、というところまで翔は空想していた。


「あたりまえだろ……!」


 がばり、と布団をはねのけるように、翔は身体を起こした。


「そんな奴から、どうやって身を守るんだよ! 食われて初めて気付くレベルじゃねぇか!?」

「ごめん、先に言っとけばよかったけど、人に化けてる妖種の全員が、人間に敵対してるわけじゃないんだ。むしろ、人間に憧れて普通に生きてる人たちだっているんだ」

「関係ねぇよ! そいつらと、さっきの花脊の違いだって分かんねぇじゃねぇか!」

「それは……ッ」


 翔の剣幕に、鸞がたじろぐ。


「だいいち、花脊は食われてるんだろ? それに……それに、肇も……!」


 途中から、翔の声は震えていた。

 かたく噛み締めた歯を剥き出しにする唇の横を、涙が流れ落ちてゆく。

 ここまで、息つく間もなく変化する状況のなかで、抑え込まれていた哀しみが、決壊した瞬間だった。


「なんで、こんなことに……!」


 うつむく翔の眼には、白い掛け布団しか映らない。

 そこに、ぽつぽつと雫の染みが広がってゆく。


「翔……ごめん……」

「やめろ!」


 肩に触れようとした鸞の手を振りほどく。


「なんで、オレだけなんだ。なんで肇も助けてくれなかったんだ……! お前ら、あいつと闘うのが仕事なんだろ……なのに……ッ!」


 鸞は痛くもない手を押さえて、黙り込むしかなかった。


 翔の追求は至極まっとうに聞こえる一方、あまりに苛烈で、情け容赦ないものだった。自分──自分たち──は守られるべきだと感じている、本質的弱者のエゴだ。

 だが、友人を失い、あまつさえその無惨な死に際を眼にした翔に真実を訴えるすべを、鸞は持っていない。


 それゆえに、助け船がはいらなければ、二人の身と心は、いつまでもこの場で膠着こうちゃくし続けただろう。


「その弁明は、私からさせてもらおう」


 カーテンがめくられ、男が入ってきた。


「兄さん……! おかえりなさい」


 鸞が兄と呼ぶ、革ジャケットの大男だ。


 だが、今はジャケットではなく、中国の武術僧が着るような武闘服に着替えている。


「あいつは?」

「逃げられた。奴の巣の中では、気配が掴めん」

「兄さんでも……ですか」

「これだけは回収してきた。きみのものだ」


 布団に覆われた翔の膝のうえに、通学用鞄が置かれた。


「持っているんだ。御守りになる」


 いまさら……と翔は思ったが、男の声には有無を言わせぬ気迫があった。


「どうも……」


 それを手に取り、とくに意味もなく位置を整える。


「私の名は顕醒けんせいくだんの妖種を抹殺する任を負ってここにいる」


 抹殺という言葉を、眉ひとつ動かさず言ってのける。それだけで、翔にはこの顕醒という男が、自分とはまったく住む世界の違う人間だと感じられた。

 鸞の兄だというが、本当に、頭のてっぺんから爪先まで似ていない。


「この件では、凰鵡おうむは私の助手にすぎない。失態の責は、すべて私にある」


 あ、と鸞が兄の方を見て、制止するような仕草をした。


「おうむ?」


 すかさず翔は訊ねた。


 無表情を崩さなかった男に、初めて人間らしい表情が浮かんだ。

 驚いている? ──ただし、あくまで軽く。


 少し責めるような眼が、弟に向く。


 申し訳なさそうに、鸞は首を横に振った。


「それについてはあとで話そう。いまは重要ではない」


 再び翔を見下ろした顔は、もとの無表情を取り戻していた。

 どう詰め寄っても答えてくれそうにないな、と翔は感じた。


「きみの言うとおり、我々はきみの友人を助けられなかった。それは申し訳なく思っている」


 相変わらず、まったく感情の見えない眼で男は言った。


「同時に、我々の敵の能力は常に未知数であることと、それゆえに我々の抑止力にも限界があるということも、理解してもらいたい」


 男が「しかし」「だが」といった逆説を用いなかったことが印象的だった。

 翔が許そうが許すまいが(そして、理解しようがしまいが)、自分のやることに変わりはない、とでも言いたげだ。


「あ……はい」


 納得というより、半分は威圧されるような形で、翔は頷いた。


「助かる。そもそも我々は、人に害を及ぼす妖種がこの学校に潜り込んだという情報を得て、今回の任に就いた。だが、この学校には最初から、数体の妖種が同じように人間の姿をとって紛れていた」

「それは……鸞から聞きました」


 もっとも、鸞は「いるかも」とぼかして言ったのだが。


「そうか。問題は、人に化けている妖種のうち、我々が討つべき危険な存在はたった一体、あとの全員は敵意のない連中ということだ」


 これは、翔には予想外だった。


「害ない妖種、ですか?」


 顕醒が頷く。


「事実、人間社会に潜んでいる妖種のうち、約九割は人間に対して無害。むしろ、人が人に害を及ぼすことの方が数でも割合でも勝っている」


 そういうものなのかと、翔は妙に納得してしまう。

 例えば、外国人による犯罪は、ニュースとしては目立つものの、かといって「外国人は危険」という判断がお門違いなのと同じだ。


 しかし、不吉な数値の高さを「勝っている」と言ってしまう男の精神が、翔には分からない。他者の不幸に対して、情がないのだろうか。


「妖種とはいえ、敵意のないものまで片っ端から殺めるのは我々のり方ではない」


 うん、と顕醒の背後で鸞が頷いた。


「しかしながら、討つべき一体が誰なのか。それが判別できなかった」

「わからない……ものなんですか?」


 これも意外だ。鸞や顕醒たちのことをよく知っているわけではないが、専門家なら、一発で正体がわかる道具や能力でも持っていそうなものなのだが。


「感じられるのは気配と殺気のみ。彼我の力量にもよるが、人に化けるのが巧妙な種を相手にするとは、そういうものだ」

「実は……」


 鸞が声を上げた。


「最初に、危険な種が学校に入り込んだって、ボクらに知らせてくれたのも、ここの校内にいる別の妖種のひとりなんだ」


 翔は眼を円くした。

 それでは、まるで妖種が人間を守っているみたいではないか。


「けど、それなら妖種同士で、潜り込んだのが誰とか分からないのか?」


 その問いに対しては、鸞は意気消沈したかのように、無言で首を横に振った。


「妖種同士ですら」


 顕醒が言った。


「自分たちの存在は、漠然ばくぜんとした気配でしか感知していない。お互い探り合わないという暗黙のルールも、彼らにはある。我々としても標的を特定するために、まさか全校生徒をひとりずつチェックしてゆくわけにもいかない」


 それについては翔も少し納得できる──父親が警察官だからかもしれない。

 彼らがどんな方法でチェックするのかはともかく、相手の能力が未知数な以上、下手に動けば標的に気付かれ、手を打たれる可能性がある。


「だから我々は、問題の妖種が確実に狙ってくるであろう人物を護衛し、迎撃することにした」


 ザアァッ──突然、顕醒の言葉が突風のように翔の心をざわめかせる。


 そして、その不安は的中した。


「大鳥翔くん。きみだ」

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