序章:第5話

   やいばときならぬ雷光らいこうの如くひらめ



 自分の手を引いているのが幼馴染みであると認識する間もなく、翔は抱きかかえられるように、空き教室の端まで連れてゆかれた。

 すごい力だった。自分より小柄で華奢なはずのその身体のどこからそんな力が出てくるというのか。


 目の端に、大柄な人影が映る──松の木のそばでらんと逢っていた長髪の男だ。あのとき見た精悍せいかん双眸そうぼうは閉ざされ、手は虚空に掲げられている。


「ハッ!」


 突然、刃が走った。

 男が剣を振るったのだ。

 速い。動体視力に自信のある翔にさえ、いつ抜いたのか見えなかった。


 ──いや、そもそも男は……徒手だったはずだ。


 そして、その一閃が花脊はなせの首を落とした。

 翔を追うかのように、あの怪物も姿を現していたのだ。


 だが、床に転がった頭を残して、すべて消えてしまった。


「オオトリクン、ホシイ……オオトリクン、ホシイ……」


 首だけになってもなお、花脊は翔を渇望していた。


「おおおおとおぉりいぃくうぅんんん────」


 その顔と声が、ぐにゃりと歪んだ。


「う……ッ!」


 翔は鼻を押さえた。

 崩れてゆく花脊から、とてつもない悪臭が放たれたのだ。

 たまらず窓を開けようとしたが、鸞がその手を止めた。


「ごめん。気持ち悪いだろうけど、すぐ収まるから」


 申し訳なさそうな顔をしつつも、鸞は平然と息をしている。もうひとりの男も同じだ。


 床の頭はもはや、もとが誰だったかも分からない、赤黒い塊になっていた。

 その色が、翔の脳裏に級友の最後の──化け物に腹を引き裂かれ、むさぼり食われている──姿を甦らせた。


「あ……ぉ……ッ!」


 翔は耐えられなかった。


「鸞」

「はい!」


 用意していたとばかりに、鸞が親友の前にゴミ箱を差し出す。

 翔はそのなかに、腹に渦巻くものをしたたか吐いた。幸いにも昼飯を食べそびれていたため、出てきたのは胃液だけだった。


 ここ数分の記憶も頭から出ていってくれないかと翔は願ったが、それは叶わなかった


 嘔気おうきが落ち着く頃には、花脊だったものは赤い水溜まりになり、悪臭も落ち着いていた。


「は……こいつ、死んだのか……?」


 花脊と言いかけて、翔はやめた。


 それはもう赤い水溜まりですらない。

 跡形もなく消えていた──まるで最初から、なにもなかったかのように、


「ううん、逃げた」


 鸞が答えた。


「首、斬られたのに?」

「ヒトじゃない、からね。本体はまだ、向こう側……」

「向こう側?」

「説明はあとだ」


 翔と鸞の話を、男が遮った。

 その手から、剣は消えていた。


 代わりに握られていたのは、両端に装飾の施された短い棒。

 金剛杵ヴァジュラ──仏教で用いられる法具だ。


 しかし奇妙な形だった。一端は漫画やゲームでよく見る金剛杵の形だが、反対側は顎を開いた龍の頭がかたどられている。


「私は奴を追う。お前は彼を休ませてやれ」


「はい」


 いつも快活な鸞が、男に対しては終始かしこまっている。まるで先生と生徒──否、師匠と弟子のようだ。

 二人はどういう関係なのだろう。翔には、想像がつかない。


「お気をつけて、兄さん」


 兄弟──? そういう態度には見えないのだが……


 学芸一座などでよくある、同門の兄弟弟子のようなものだろうか。


「いや、気をつけるのはお前だ」

「え?」

「奴の標的はそっちにいる。入れ違いにでもなれば、私が戻るまでお前が抑えるしかない」

「わ……わかりました。頑張ります」


 はたで聞いている翔は、ほとんど内容についてゆけない。

 だが〝奴の標的〟というのが何かはわかる。

 自分だ。

 ということは、鸞が自分を守るというのだろうか。


「では、な」


 そう言い残すと、男はまた手を虚空にかざし、眼を閉じた。

 そして、フッと姿を消した。


「どうなってんの……?」

「さっき、翔がいた方の世界に入ったの」


 なんでもないように鸞は答える。

 もちろん、翔の頭のなかではクエスチョンマークが飛び交うばかりだ。

 訊きたいのはそこではない。いや、そこもあるが、そこだけではない。


「ごめん、まずはここを出よっか。これも、綺麗にしないとね」

「あ、うん。ごめん」


 申し訳なくなって、翔は謝り返す。

 これ、という鸞の手には、ゴミ箱が掲げられていた。


「気にしないで」


 鸞が優しく微笑む。

 その笑みに、翔は一瞬、幼馴染みの性別を間違えた。

 こういう表情をした鸞は、心底から少女にしかみえない。


 翔が顔を赤くしているのに気付かぬまま、鸞は教室の扉を開けた。

 喧噪けんそうが、ドッと部屋に入ってくる。

 翔は唖然とした。

 廊下、教室、中庭。必ず誰かがいて、足音も話し声もする。


 いつもの校内だった。

 さっき自分が走り抜けてきたときは、みんなどこに隠れていたのだろう。


「あの……」


 あのさ、と状況を訊ねようとして、翔は黙った。


「行こう。なるべく、喋らないで」


 ゴミ箱を抱えて、鸞が歩き出す。

 その横顔は翔がついぞ見たことのない、近寄りがたいほどの真剣なものだった。


 幼馴染みで親友──そうだったはずの鸞のことが、翔には、ますます分からなくなってきた。

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