第2話 雨の日はカブリオレで。
まだ夜が明けきらない日曜日の朝。洋一は自分と妻のために淹れた珈琲を携えて、地下駐車場につながるエレベーターに乗った。駐車場のセキュリティを解除するためのパスワードを打ちこみ、珈琲をすすりながらクルマが出てくるのを待っていた。
洋一のマンションはベイエリアと呼ばれる東京湾沿いにある、タワー型の高層住宅だ。三十代・四十代の家族に人気で、購入時には倍率が数倍におよぶ住戸もあるらしい。
「夜景のきれいな高層住宅に住みたいわ」。
妻に懇願されて昨年の秋に購入したが、入居してひと月も経つと「きれいな夜景」は日常の風景になり、いつの間にかカーテンを閉め切っている自分に気がついた。
こんなものかな。
なかば諦めに近い感慨にふけっているとシャッターが開き、フォー・シルバーリングスのマークがついたカブリオレが、小さく身を揺らして静止した。
見慣れたフォルムではあるが、見飽きないとはこのことだ。
アウディRS6。V型6気筒 3000㏄ 359㏋の圧倒的なパワー。獰猛ともいえる牙を美しいデザインで隠したこのカブリオレを洋一は、路上の貴婦人と称んでいる。
ドライビングシートに身を沈めて、セルスターターをまわす。するとシリンダーに点火された内燃機が目を覚まし、それまでの静寂な空気に満たされていた地下駐車場を咆哮となって駆け巡った。
エンジンが温まった頃合いを上手に見計らって、セレクターレバーを握ってDレンジに入れる。デュアル・クラッチを採用したトランス・ミッションは、わずかな振動さえドライバーに伝えることなく、クワトロらしい駆動を四輪に与えて進みだした。
地下駐車場から出ると外は雨。フロント・ガラスでは雨粒が踊り、それをワイパーがスッと拭き払う。その動きが見られるのも、雨の日の恩恵だと洋一は思っている。
そして、もうひとつ。幌にあたる雨音だ。ポスッ、ポスッと幌にあたる弱々しい粒音を聞きながら走るのも悪くない。悪くないどころか、これこそカブリオレの醍醐味だ。
まるでこうもり傘に当たる雨粒の感覚。ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、ランランラン。 幼い頃に口ずさんだ童謡を思い出しながら洋一は、勝島から首都高速1号羽横線に入り、そのまま横浜に向けて、路上の貴婦人=RS6を走らせた。
まだ朝が早いせいか、交通量は少ない。適度にRがついたコーナーを抜けるごとに アクセルのオン・オフを繰り返すと、RS6は躾が行き届いた犬のように鼻先をきれいにコーナーの出口に向け、そして瞬時に加速する。彼はこの瞬間が大好きだ。
往年のアウディ200クワトロのような荒々しい駆動ではないが、今朝のように雨で濡れたウェット路面でも、乾いた路面に劣らないオン・ザ・レール感覚を味わえるのが、いまどきなのだろう。
スキーのジャンプ台を駆け上がってゆく、アウディ200クワトロのCMを思い出し ながら洋一は、還暦を越えてもなお、クルマ生活を楽しめる自分に満足だった。
そしてわざわざ雨の日に、しかも早朝からカブリオレのステアリングを握る自分を嘲笑した。カブリオレ乗りでなければ味わえない風景。悪くない一日の始まりだ。
目的地の箱根のガレージに着いたら、温かい珈琲を淹れよう。父親譲りのクルマ生活。息子が受け継いでくれるのが楽しみだ。
ハイオクタンの記憶 笠間謹吾 @yukinko_0704
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