ハイオクタンの記憶

笠間謹吾

第1話 父が愛した、S800。

2021年の晩秋。僕は父を亡くした。95歳だった。


貿易会社を経営していた父は、朝から深夜まで仕事に没頭して、子育ては母に任せっきり。運動会や学芸会なんてそっちのけで、接待ゴルフやらなんやらで家にいたことはない。まあ、典型的な仕事人間というわけだ。

 

そんな父の遺品を整理していたら、マホガニー材で設えたデスクの引き出しの中から、HONⅮAのロゴが刻印されたキーホルダーが出てきた。父が乗っていたのは、ジャガーⅩJだ。ホンダ車ではない。そしてキーホルダーには、もうひとつ鍵が繋がれていた。どうやら住宅の扉の鍵のようだ。


母に尋ねると、それは箱根にあるガレージの鍵で、もうひとつの鍵はクルマのイグニションキーだという。父が箱根にガレージを持っていたとは聞いたこともないし、ガレージに収めるようなクルマを所有していたことも知らなかった。どうやら父はクルマが大好きだったらしい。いろいろなクルマを乗り継いできたが、箱根のガレージにある一台は、特に気に入っていたと母は懐かしそうに言った。


「そうそう、アルバムにクルマの写真が残っているわ」

納戸の奥から古いアルバムを 探し出して、私に見せてくれた。

「このクルマよ」


えっ!これはHONⅮA S800じゃないか。


古いアルバムの色あせた台紙に貼られたカラー写真には、若かりし頃の父がカナリア色のS800とならんで映っていた。カッコいいだろ、と言いたげな父の表情は誇らしげで、凛々しく見えた。


「お父さんはこのクルマが大好きでね。暇さえあれば箱根新道やターンパイクを

走っていたわ。そう、私もなんどか連れて行かれたのよ」


なるほど、そうか。日曜日は接待ゴルフだとばかり思っていたけど、そのうちの何回かは箱根を走っていたのか。そう言えばふたりで朝早くから出かけた日曜日もあったけど、それはドライブの日だったに違いない。アルバムの古いカラー写真を見ていると、謎が解けたようにすっきりした気分になった。


「それでね」と母は続けた。

「自分が死んだらこのクルマをあなたにって。大事に乗ってあげてね」


天から降ってきたようなサプライズに、私はしばらく呆然とした。


エスハチは昭和の名車だ。あの本田宗一郎が手がけたとびきりの名車が、いま手中にある喜び。クルマ好きなら誰もが乗りたがる、エスハチを操れる歓び。あらゆる思いが複雑に交差して、目の前がクラクラした。


そして、いてもたってもいられず、母にガレージの場所を訊ねた。


ガレージは芦ノ湖を見下ろす山の中腹にあり、湖を周遊する有料道路のすぐそばだ。きっと好きなだけエスハチを走らせたらガレージに戻り、母が淹れた珈琲を美味しそうに飲んで、疲れを癒したことが容易に想像がつく。ときには父だけでガレージを訪れ、焚火をしながらひとりだけの夜を満喫していたに違いない。


なんてすてきなクルマ生活をしていたんだ。

うらやましさをとびこえて、あこがれてしまうじゃないか。


しかし、エスハチを引き受けたのはいいが、果たして僕は父のように、芳醇な時間をすごせるだろうか。還暦を迎えたとは言え、クルマ生活の絶対的境地は、父におよばないことだろう。


遺品の整理が終わったら、ガレージに行ってみよう。

そしてその時は、父の遺影を忘れずに携えよう。

エスハチのシートに座り、エンジンをかけたら、父はきっとこう言うだろうな。


「さあ、走ろうか」


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