第8話 神の舌の挑戦状
特訓が始まって、二日目の朝。
私の体は、悲鳴を上げていた。
「うぅ……腕が、上がらない……」
昨日一日中、来る日も来る日も玉ねぎの千切りとジャガイモの皮むきをさせられたせいで、全身がひどい筋肉痛だった。
こんな地味な基礎練習が、本当にミケランの星に繋がるんだろうか。
私が厨房のテーブルに突っ伏して呻いていると、店のドアが開き、師匠――フィクサー様が涼しい顔で入ってきた。
「なんだ、その様は。基礎体力もなっていないのか」
「だ、誰のせいだと……!」
私が睨み上げると、彼は初めて、ほんの少しだけ口の端を緩めた。
笑った、というよりは、面白がっている、という感じの表情だった。
「さて。今日は君の舌を試す」
そう言うと、彼は持参した革の鞄から、次々と不思議なものを取り出し始めた。
見たこともないような様々な意匠の小瓶。丁寧に包まれた小さな布袋。
それらがテーブルにずらりと並べられていく光景に、私はごくりと唾をのんだ。
「な、何が始まるんですか……?」
「いいから、これを」
彼に手渡されたのは、一枚の黒い布。
有無を言わせぬその瞳に、私はおそるおそる、自分の目にその布を巻き付けた。
視界が真っ暗になると、途端に他の感覚が鋭くなる。厨房に漂うスパイスの混じった香り、遠くで鳴いている鳥の声、そして、目の前に立つ彼の静かな呼吸の音。
「まずは、塩だ」
フィクサー様が、小さな匙を私の唇にそっと近づけてくる。
ほんの少しだけ、舐めてみた。
しょっぱい。当たり前だ。でも……。
「……なんだか、太陽みたいな、カラッとした味がします」
「ほう。次だ」
また、別の匙。今度は……。
「こっちは、なんだか静かな湖みたいに、どこまでもまろやか……。優しい味がします」
私がそう答えると、フィクサー様は「いいだろう」と言って、私の目隠しを外した。
目の前には、産地の違う数種類の塩が並んでいた。
「君が最初に太陽みたいだと言ったのは、岩塩だ。ミネラルが豊富で、力強い塩味になる。次が湖塩。角がなく、素材の味を邪魔しない。君の感覚的な表現は、的を射ている」
自分の感覚が、理論で裏付けられていく。
驚きで目を見開く私に、彼は容赦なく次のテストを始めた。今度は、より複雑なスパイスだ。
「うわっ、なんだこれ! 舌が、痺れる……!」
次々に出される未知の味に、私の舌はパニックを起こしそうになる。
でも、私は必死に集中した。目を閉じて、舌の上の感覚だけに全神経を注ぐ。
(これは、チクチクした赤い棘があって、でも奥の方で丸いオレンジ色の光が灯るような……そんな味……!)
「……どうした。黙り込んで」
「えっと、その……チクチクして、赤くて、でも、オレンジの光が……」
我ながら、意味不明な感想だ。
呆れられるかと思ったのに、フィクサー様は、初めて心から興味深そうな態度を見せた。
「ほう、面白い表現をするな」
彼は、私の隣に置かれていた小瓶の一つを指さした。
「それは『
自分の感覚が、彼の言葉によって、次々と翻訳されていく。
すごい。この人は、本当にすごい。
私は、自分の味覚が「鋭い」と言われたことはあったけど、それが何なのか、どう表現すればいいのか、今まで知らなかった。
悔しさと、それ以上に、新しい世界が目の前に開けていくような興奮で、胸がいっぱいになった。
一連のテストを終えた後、フィクサー様は満足げに頷いた。
「君の舌は、面白い。だが、宝の持ち腐れだ。舌が優れていても、いろんな味を言葉で的確に表現できなければ、意味がない。どんな時にどのスパイスを使えばいいのか、知識を蓄える必要がある」
彼は、挑戦的な瞳で私を見つめる。
「明日からは、この世界の全ての味を、君の頭の中に叩き込んでやる。覚悟しておくことだ」
それは、鬼教官からの地獄の宣告のようでもあり、最高の師匠からの、最高の約束のようにも聞こえた。
「はい!」
私は、今日一番の大きな声で、力強く返事をした。
筋肉痛の痛みも、心のどこかに追いやられていた。
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