第7話 ダイヤモンドの磨き方


 その夜、私は一睡もできなかった。

 店の小さなベッドの中で、何度も何度もフィクサー様の言葉を反芻する。


『僕が君を指導する』

『この件で僕がミケランでの立場や、それ以外の全てを失っても、君は文句を言わないこと』


 あまりにも重い覚悟のこもった言葉。

 私なんかのために、どうして彼がそこまでのリスクを負う必要があるんだろう。

 私に、その覚悟を受け止める資格なんてあるんだろうか……。

 怖かった。彼の申し出を受けることは、もう二度と後戻りできない、未知の世界へ飛び込むことだったから。


 でも、目を閉じれば、父さんの「誇りだ」という最後の言葉が聞こえてくる。

 ガウェイン様の、私と私の料理を見下しきった、あの嘲笑が蘇ってくる。

 悔しさで、胸の奥がじりじりと焼けるようだった。


「……やるしかない」


 東の空が白み始める頃、私はベッドから跳ね起きた。


「これが、最後のチャンスなんだから!」


 顔を洗い、髪をきつく結び上げる。

 約束の朝、私は厨房を完璧に掃除し、身支度を整え、覚悟を決めた表情で、ただ一人、その時を待った。


 朝日が厨房に差し込むのと、彼が現れたのは、ほぼ同時だった。

 フィクサー様は、昨日と同じシンプルなシャツ姿で、時間通りにそこに立っていた。


「覚悟は、決まったようだな」

「はい! よろしくお願いします!」


 私は、床に額がつくほど、深く、深く頭を下げた。

 顔を上げた私に、彼は頷きもせず、私の聖域である厨房を、厳しい目つきで隅々まで見渡し始めた。


「効率が悪い。塩はなぜそこにある? 火元と水場の距離が遠すぎる。全ての動きに無駄がある。これでは最高の料理は作れない」


 次々繰り出されるダメ出しに、私は口をぽかんと開けてしまう。

 そして、彼は最初の課題を出した。


「小手先の技術を見る。君の得意なものでいい、何か作ってみなさい。ただし、僕の言う通りに」


 私が選んだのは、得意料理というわけではないけれど、基本となるシンプルな野菜のスープだった。

 でも、彼の指導は、私の知っているスープ作りとは、まったく違っていた。


「玉ねぎは3ミリのスライス。誤差は0.5ミリまで」

「鍋を火にかけて15秒。オリーブオイルを正確に5グラム」

「塩は2.3グラム。時間差で三回に分けて投入する」


 まるで科学の実験のようだった。

 私は彼の指示に必死で食らいついたけれど、自分の感覚とあまりに違う調理法に、つい反発してしまう。


「こ、こんなやり方じゃ、野菜の甘みが死んじゃいます! いつもは、もっとこう、手早く炒めて……」

「なぜ?」


 フィクサー様は、私の言葉を、冷静な一言で遮った。


「なぜそうするのか、理論的に説明できるか?」

「それは……経験と、勘、です……」


 声を絞り出すのが、やっとだった。

 彼は、小さくため息をついた。


「料理は科学だ。全ての工程には、味を構成するための理由がある。君の『勘』は、特殊な才能に助けられているだけの、再現性のないまぐれに過ぎない」


 悔しくて、視界が滲む。

 でも、私は唇を噛み、涙をこらえながら、彼の指示通りにスープを完成させた。

 出来上がったのは、見た目はいつもと同じ、ただの野菜スープ。

 私は、おそるおそるスプーンでそれを一口、口に運んだ。


「……え?」


 愕然とした。

 なに、これ……!?

 野菜一つ一つの味が、信じられないくらい鮮明に、それでいて完璧に調和している。

 私が今まで作っていたものとは、まったくの別物だった。

 自分の腕ではなく、「理論」が生み出したこの完璧な味に、私は言葉もなかった。


 その日の昼過ぎ、店の様子を見に来たフェルトとシュミットは、厨房の光景を見て目を丸くした。

 そこには、鬼教官のようなフィクサー様に見守られながら、私が来る日も来る日も、ただひたすらにジャガイモの皮を剥いたり、玉ねぎの千切りをしたりしている姿があったからだ。


「リノン、一体あの人は何者なんだよ……?」


 フェルトの心配そうな声に、私は顔を上げられない。

 悔しくて、情けなくて、泣きそうだ。

 でも、それと同時に、私の心の中には、今まで感じたことのない種類の光が灯っていた。

 知らないことを知る楽しさ。できなかったことができるようになる喜び。

 私のその複雑な表情を見て、仲間たちは、今は何も言わずに見守ってくれることを選んだようだった。


 私の、本当の戦いが、今、始まったのだ。


 

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