第6話 神の舌の憂鬱


【フィクサーサイド】



 僕の厨房には、塵一つ落ちていない。

 磨き上げられた銀のカトラリーは、ミリ単位の正確さで配置されている。調理台の上には、余計なものは何一つ置かれていない。

 僕の料理は、完璧な数式に基づいている。最高の素材を、最適な温度で、寸分の狂いもなく調理する。

 出来上がった一皿は、誰が見ても美しく、誰が食べても美味しいと絶賛するだろう。

 事実、そうだ。これまで、僕の料理を食べて、不満を漏らした者は一人もいない。


 ――ただ一人、僕自身を除いては。


「……違う」


 味見用のスプーンを置き、僕は小さくため息をついた。

 完璧だ。完璧なはずなのに、何かが足りない。

 まるで、精巧に作られた、美しい屍体だ。そこには、魂が、ない。


 脳裏に、先日訪れた、あの古びた食堂の光景がよぎる。

 「三毛猫亭」。

 僕が唯一、その料理を尊敬していた男、グリモリア氏の店だ。

 彼の厨房は、僕のとは正反対だった。雑然としていて、お世辞にも綺麗とは言えない。だが、そこには温かい生活の匂いと、何より「楽しさ」が満ちていた。

 彼の娘だという、リノンという少女。

 悲しみに暮れながらも、その瞳の奥に宿っていた、荒削りなダイヤモンドの原石のような光を、僕は見逃さなかった。


 その時、魔法通信の受信を告げる水晶が、淡く光った。

 相手は、ミケランの会長だった。


『フィクサー君、少し面白い案件があるんだが、審査員をやってみないかね? 君のそのなかなか満足しない“神の舌”にも、たまには刺激が必要だろう。少しは気晴らしになるかもしれんよ』


 老獪な会長のことだ。僕の苦悩など、とうに見抜いているのだろう。

 僕は、その申し出を軽い気持ちで引き受けた。


 審査当日。

 渡された店のリストに、僕は内心で激しく動揺していた。


(三毛猫亭……!? まさか、彼女の店を僕が審査することになるとは……!)


 偶然か? いや、会長のことだ。これも、僕を試しているのかもしれない。

 店に入ると、案の定、彼女――リノンは、僕の姿を見て息をのんだ。

 その動揺した視線を感じながらも、僕は感情を押し殺し、あくまで審査員として、冷静を装った。

 同行した他の審査員たちの浅薄な態度には、内心でうんざりする。

 まただ。彼らは料理ではなく、その背景にある家柄や見た目の権威しか見ていない。


 やがて、リノンの料理が運ばれてきた。

 『岩トカゲの自家製ハム』。

 他の審査員が「下賤だ」と眉をひそめる中、僕はその独創的な香りと、常識外れの調理法に、驚きを隠せなかった。

 そして、一口、食べる。

 その瞬間、僕の「神の舌」が、警鐘のような信号を送ってきた。


(なんだ、この味は……!)


 雑だ。塩分が強く、火入れも均一ではない。荒削りすぎる。

 だが……生きている!

 僕の料理にはない、この躍動感はなんだ? 素材が、死んでいない。むしろ、厨房にいた時よりも生き生きと、その生命力を主張している。


 そして、僕は思い出す。

 この無鉄砲で、常識を覆すような発想……。亡きグリモリア氏の料理と、同じ匂いがする。


(この発想……やはり、彼の娘か! 血は、才能は、確かに受け継がれている……!)


 だが、僕は公の場では、冷静に技術的な欠点だけを指摘した。

 

「塩分の調整ができていない。火入れにもムラがある。これでは料理とは呼べないな」


 他の審査員たちが、満足げに席を立って去っていく。

 僕は、一人、その場に残ることを決めた。

 打ちひしがれ、俯く彼女の姿を見つめる。


(この才能を、このままガウェインのような俗物に潰させていいのか? いや、ダメだ。それは、料理そのものへの冒涜だ)


 それに……。


(あるいは、彼女こそが、僕のこの行き詰まりを破壊してくれる『何か』を持っているのではないか?)


 リスクは大きい。ミケランでの立場。そして、僕が隠している、本当の立場……。

 だが、そんなもの、この知的好奇心と、料理人としての本能に比べれば、些細なことだ。


 僕は立ち上がり、彼女の前に残された料理を、もう一口食べた。


「……確かに、今のままでは『まずい』」


 絶望に染まった彼女の瞳が、僕を見上げる。

 いい、目だ。


「だが、それは君に才能がないからじゃない。君は、ダイヤモンドの原石だ」

「え……?」

「基礎が、なっていない。だが、磨けば光る」


 僕は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて、僕自身の未来を賭けた、一つの提案をした。


「僕が君を指導する。ただし、これは僕個人の判断だ。当然リスクもある。審査員が特定の店に肩入れするわけにはいかないからね……。だから、この件で僕がミケランでの立場や、それ以外の全てを失っても、君は文句を言わないこと。それが条件だ」


 僕の言葉の意味を、彼女はまだ理解できないだろう。

 それで、いい。


「……返事は、明日聞こう。本格的に始めるなら、明日の朝、ここに来るから、それまでに用意をしておくこと」


 僕はそれだけ言うと、彼女に背を向け、店を出た。

 僕の憂鬱な日常は、今日で終わりになるかもしれない。

 あの荒削りな原石が、僕に何を見せてくれるのか。

 柄にもなく、胸が躍っていた。


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