第四章 狂相、開眼す

 楊の重瞳ちょうどうが完全に重なり、早暁の中で光の軌跡が走る。戦場全体が彼の視界に広がった。全軍の運命が、今この視線に宿る。


 補給線、伏兵の動き、敵将の布陣――。

「……見えた」


 楊は徐伯道を呼ぶと、敵の輜重しちょう部隊の位置を伝えた。

「敵の輜重部隊へ火を放て。攪乱かくらんするだけでいい。無理はするな」

「なるほど……それは面白そうだ」

 徐伯道は、ニヤリと笑い唇をめた。

 

 後背の兵站へいたんに揺さぶりをかけるべく、徐伯道率いる少数の騎馬部隊が行動を開始する。


「輜重部隊の守りは、騎兵と歩兵が、それぞれ百」

 と、斥候から報告がある。


「さすがに、輜重部隊を裸にはしねえか……」

 徐伯道は苦笑いを浮かべた。

 ”奇跡は起きない”と、賀進を当て付けたのは昨日だ。――彼は、もういない……。


 ――けっ、早々に楽しやがって……。


「いいか! 火矢で一撃したら即離脱。騎馬の速さを活かす。それしかねえ。わかったか? 野郎ども!」

 と、兵たちへ活を入れる。


 柔然の兵が八方を見張る中、朝もやで視程が悪いことを利用して、魏の騎馬隊が奇襲をかける。


「敵だーっ!」

 見張りの兵が警告を発した寸秒後には、最初の火矢が食料を積んだ荷車に突き立っていた。

 次々と火矢が命中し、数台の荷車が燃え上がる。


 そして、魏の騎馬兵は、あっという間に朝靄に溶け込んで見えなくなった。


「まだ来るぞ! 油断するな!」

 守備兵の指揮官が叱咤しったし、懸命に目を凝らして魏兵の姿を探索する。


「来たぞ!」

 魏兵の第二波が突撃してくる。

 柔然兵は弓矢を構え、手ぐすね引いて待機していた。矢を射かけるも――、


「クソッ! 速い」

 全速力で駆け抜けていく魏軍の騎馬には、なかなか狙いが定まらない。 

 それでも数騎が脱落した。


 さらに第三波。

 柔然は、追撃すべく騎馬の準備もできていた。

 

 急襲した魏軍の火矢は、さらに数台の荷車を焼いた。

「追えっ! 逃がすな」

 

 柔然の騎馬兵が追撃し、背後から矢を射かけてくる。

 ――潮時だな……。


「野郎ども! 引き上げだ!」

 魏兵は回鶻射かいこつしゃ(フルグ射撃:疾走しながら後ろへ矢を放つ技術)で反撃しつつ、撤退していく。殿しんがりは徐伯道が務める。


   ◇ ◆ ◇


 遠方、敵輜重部隊の方向に、うっすらと立ち上る煙が白狼塞から見えた。


「予定どおりだ。行けっ!」

 あらかじめ柔然兵から鹵獲ろかくした装備を身に着けた数人が、敵兵に紛れ込むべく出立する。 

 彼らは、当然、違和感がない程度には柔然の言葉を話せる。

 

 輜重部隊を襲った兵力では、殲滅せんめつは無理だ。

 敵を混乱させるには、被害が大きいように心理操作する必要がある。


「輜重が燃やされた!」「もう食い物がねえぞ!」

「負けだ! 負けだ!」「早く逃げろ!」


 紛れ込んだ魏兵は、口々に虚言をきながら敗走する姿を演じる。


「おい! 本当に煙が上がっているぞ」

 魏軍との戦闘を前に、柔然の兵たちに動揺が広がっていく。

  

「損害は軽微だ。これしきで負けはせぬ」

 柔然の指揮官たちは、動揺を抑えようと必死だ。だが、兵たちは、その声のこわばりを敏感に感じ取っている。


 柔然の将軍は、このまま士気が低下していくことを恐れた。


「突撃! 我らは圧倒的有利だ。数で磨り潰せ!」 

 敵の主力が総攻撃を開始する。


 動揺を見て取った楊は門を開き、敵中に突撃を慣行。

 裂邪が戦神のごとききらめきを放ち、数十を超える兵をなぎ倒した。


 敵兵は動きを止め、見上げた者は――、

「まるで神ににらまれたようだった」とのちに語るほどだった。


 その戦術で形勢は大きく傾いた。



 奇襲から戻った徐伯道の背には、すでに五本の矢が突き立っていた。うち二本はよろいを貫通し、体に達している。出血も、かなりのものだった。


 ――このまま押していけば、勝機が見える!


 そう観取した徐伯道は、奮い立つ感覚を覚えた。矢傷の痛みも、もはや感じないほどに。

 彼は、負傷も疲労も押して再出撃。その心意気に打たれた兵で、まだ動ける者は彼に続いた。


 だが、徐伯道は、もう限界だった。動作が緩慢になり、反射神経も鈍っている。

 柔然兵の騎乗槍が脇腹をえぐる。――やがて矢が彼の胸を貫いた。棒立ちとなった体に、さらに矢が刺さる。二本、三本……。


 徐伯道は、戦場に倒れる。

 頼りの老兵が脱落し、魏軍にも動揺が広がる。


 決着には、あと一歩及ばず、双方が兵を引いた。


   ◇ ◆ ◇


 その夜。

 徐伯道は、奇跡的に戦場から救助されていた。


 朱蘭の治療も虚しく、もはや虫の息だ。


 医療小屋を訪れた陽の瞳はれていた。

 横たわる徐伯道は、虚ろな目を陽に向けた。 

 

「……俺は鼻が利くし、運もいいんだ。無謀なことは、ずっと避けてきた。

 ……ざまあねえな。最後の最後で熱くなっちまった……へっ……へっ、へっ、へっ……、

 これでもう、あいつに顔向けできるかな……」


 徐伯道は、薄い笑いを浮かべながら息を引き取った。

 それは苦笑いなのか、それとも……?


 泣き声を押し殺すように、口を閉ざす朱蘭。

 陽は無言で振り返り、静かに去っていく。

 朱蘭には、その肩が震えているように見えた。

 

 徐伯道の死を乗り越えようと、とりでの兵たちは最後の決戦に備える。まさに、真剣そのものだった。

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