第二章 五百の破軍

 翌朝、白狼塞の中庭に兵たちが集められた。

 まだ少年の面影を残す者、片脚を引きずる老兵、雑戸の庶民から輪番で徴発されたばかりの若い郷兵など――その数、およそ五百。


 楊大眼は城門前に立ち、兵たちが自律的に整列した、その光景を見渡した。

 兵の衣が、ゆらゆらと風にたなびく。

 その目に浮かぶのは不安と、ほんのわずかな誇りだった。


「……今から、命の取引をする」


 彼の声に、風すら息を潜めた。 

 続く言葉に全員が耳を澄ます。


「ここが三日持てば、民は救われる。だが俺は、誰にも強制せん。逃げたい者は逃げよ。背を見送ることはしても、追って罰することはない」


 ざわめきが広がった。――かまわず楊は続ける。


「残る者は、この地で死ぬ覚悟をせよ。俺の下で戦うとは、そういうことだ」


 沈黙が訪れた。

 その中で、一人の若者が剣を抜き、高々と掲げた。

「俺は逃げません! 将軍とともに死地に立ちます!」


 それに続いて、二人、三人と名乗りを上げていく。


 ハッハッハッ……最前列に立っていた老兵・徐伯道じょはくどうが、笑いながら一歩前へ出た。

「さすがは破軍星の将。……人の心まで震わせてくれるらしい」

 彼は長年にわたり死地をくぐり抜けてきた。兵たちの信頼は厚い。


 その日、とりでの兵のうち、逃げた者はわずか十七名だった。


   ◇ ◆ ◇


「……まったく、あんな目で睨まれたら病も引っ込むわ」

 夕刻、朱蘭は負傷者の寝床の間を縫うように歩きながら、独り言ちる。すると――、

 ふと楊の姿を見つけた。思わず、さっと身を隠してしまう。


 彼は負傷兵をじっと眺めている。すると、鼻をすする音が聞こえた。

 まさか! ――泣いているの⁉

 兵を死地へ駆り立てた鬼と同一人物とは、とても思えない。

 

 やがて、水をんでくると、黙々と床を拭き、ピカピカに磨きあげていく。

 朱蘭は刮目かつもくした。病床の清潔さが死亡率の低下につながることは、経験則で実感している。

 陽は、そのまま無言で去っていった。


「鬼にしては、なんと情け深い。随分と人間らしいじゃないの……」

 誰に言うでもなく呟いたその言葉に、朱蘭自身が驚いていた。


   ◇ ◆ ◇

 

 その夜、賀進は徐伯道と火の前にいた。


「将軍は何を考えているのか? こんな無謀な戦いに意味があるとは思えない。私は、塞を棄てるよう進言したのに……」

 賀進は、力なく不平を鳴らした。

 

「塞には、女や子ども、それに負傷兵もいる。誰かが足止めをしなけりゃ柔然の追手を振り切れないだろ」

 と、徐伯道が諭すように悠然と言葉を返す。


「白狼塞は、たいして大きくはない。逃げたとして、柔然が追ってくるとは限らない!」

 賀進は、俯いていた顔を上げると語気を強めた。


「へへっ、ほかならぬ自分には、天が味方して奇跡が起こるってか? それはただの夢想だ。

 野戦で追撃されたら、絶対に勝てない。民が生き残るためには、塞を守る一手しかない。破軍星をもってすれば、全滅は免れるんじゃないか? 俺は意味のある戦いだと信じるぜ」

 願ったところで奇跡は起きない。多年にわたる経験に裏打ちされた老兵の言葉には、重みがあった。


「戦の意味なんて、わかるのか?」

「意味は後の世がつけるもんさ。今できるのは、命の重さをはかりにかけることだけだ」

 賀進は、それ以上言葉が続かない。


 火が長く伸ばした二人の影は、ゆらゆらと揺蕩たゆたっていた。

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