裂邪の将と五百の破軍──死して守る、最後の砦

聡明な兎

第一章 破軍星、城に現る

 黄砂混じりの風が、長城の一画をなす白狼塞はくろうさいの石壁をたたいていた。

 城壁の上に立つ一人の男が、遠く西方の地平をにらんでいる。

 その瞳は異様な輝きを帯びていた。黒の中にもうひとつの黒が、重なるように回る。

 楊大眼ようたいがん。かつて北辺の地で百戦を潜り抜けた戦鬼。その異相ゆえに、敵将からは「」と恐れられ、魏廷の文官からは「」と疎まれていた。


「五千だそうです。柔然じゅうぜん(塞北の遊牧国家)の大将旗が五つ、三百騎を超す偵察隊が先鋒せんぽうに――」


 副官の賀進が報告を終えると、楊はゆっくりとあごを引いた。

 風の音が、静寂の隙間に割って入る。


「この数が急襲してきたのでは、援軍は間に合わない。鎮将は、おそらく防衛線を後退させる。沙州刺史も却下できまい」

 西方を見つめながら、陽は平然と語る。

 その無神経さが解せずに、賀進は驚目をみはった。


 常備軍は、鎮将府の部隊に都塞の駐屯兵を併せても三千程度。すでに数の上では負けている。今から補助兵や傭兵をかき集めても、間に合うはずがない。


 ――白狼塞は見捨てられる。

 詰まる所、陽はそう言っているのだ。にもかかわらず、あの態度……。

 賀進は不信感を募らせる。戦鬼などというが、腕っぷしだけで戦術に疎い愚将なのでは、と。


「……城を棄てるべきです。塞内には、女や子どもも残っています。これらを伴って南へ退きましょう」

 賀進の声は理性的で冷静だった。しかし、その裏には焦燥と怒りが隠されている。

 得体の知れない上官であるが、ここは捨て置けない。


  楊は答えず、ただ風の向こうを見る。――やがて静かに口を開いた。


「三日。ここが三日持てば、民は逃げ切れる」

「三日で何が……」

「今朝、北の谷路から避難が始まった。西の村々も、あと三日あれば山越えできる」


 賀進は楊の顔を見た。その瞳には光と影、冷徹と情がないまぜになって渦巻いているかのようだ。


「ですが将軍、それは我らに捨て石になれと……」

「違うな」と、陽は遮るように即答した。


「俺の目を見ろ」

 ゆっくりと頭巾を取り、陽は、その双眸そうぼうを露わにする。

 ヒエッ! 兵士の数人が、その視線にたじろぎ身をすくめた。

 

 ――あれは……車輪眼!


 まったくの想定外に、数多あまたの武人を見てきた賀進ですら鳥肌が立った。


 人相学では犯罪者に多い凶相である一方、貴人・英雄の特徴であるとされることもある。

 劉邦と中華の覇権を争った項羽も、そうだったと言われている。


「俺たちは、死ぬために戦うんじゃない。……生き延びさせるために、ここに立つ」


 その言葉に、賀進は言葉を失った。

 戦鬼と呼ばれた男の瞳に、確かにの意志が宿っていた。

 ――この男が本物なら、ついていけるかもしれない……。


   ◇ ◆ ◇


 その夜、塞の一角にある仮設の医療小屋。

 柔然の斥候部隊と遭遇・交戦し、負傷した兵が運びこまれていた。

 朱蘭しゅらんは負傷者の応急処置を終えると、ふと壁際に座り込んだ。彼女の兄は、かつてこの地で討ち死にしていた。

 戦を憎む彼女は、なぜかこの城を離れられなかった。


「楊大眼……あの男の目は、鬼の目か、人の目なのか……?」


 誰にも届かぬ独白が、夜風に溶けていった。

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